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今日のクラシック、コンスタンティン・ホイヘンス作曲『Air de cour and two Dutch songs』 [今日のクラシック]

今日のクラシックは、コンスタンティン・ホイヘンス作曲『Air de cour and two Dutch songs』です。


コンスタンティン・ホイヘンスは、光の波動説で有名な物理学者クリスティアーン・ホイヘンスのお父さんです。息子のホイヘンスを調べたら、お父さんが作曲もしていたと書いてあったので、一体、どんな曲を作っていたのだろうと興味を持ち、YouTubeで検索をかけたらこの曲が出てきました。コンスタンティンは1596〜1687年ですから、バッハ以前の作曲家。一応、バロック期の作曲家になるんでしょうが、この曲を聞くと、それ以前のフランドル楽派などの形式にしたがって書かれた曲のように感じられますが・・・。
Tastenkastenさんに助け舟を出してもらわないと、よくわからないにゃ(^^ゞ

この曲は世俗的な曲だし、この時代のバロック音楽はただでもバッハやヘンデルなどとは違っていて――ネムネコにとってのバロック音楽とは、バッハ時代の、しかも、ドイツ圏の限定されたもの!!――分類が難しくて、よくわからないにゃ(^^ゞ

フランドル楽派の曲なんて、大学の教養課程で西洋音楽史の講義を受講した時に、先生がちょこっと聞かせたくれただけで、ほとんど聞いたことがない。その講義内で、フランドル楽派は、板書で2行から3行程度で片付けらてしまう、そんな扱い、そんな存在だった。
その講義の教科書――その講義で一度も使われたことがなかった教科書――には、結構、ページが割かれていたように記憶しているが・・・。
だから、オルランド・ディ・ラッソなんて作曲家の名前は知らないにゃ。




これまでに聞いたことがないから、『Missa pro defunctis』は、 新鮮で、やけにいい曲のように思える。様式的には古いはずなのに、様式的な古さを微塵も感じさせない、いや、この表現は正しくない、作曲様式を超越した名曲のようだ。

話は、コンスタンティン・ホイヘンスに戻って、ホイヘンスにはこんな曲もあるようです。


こちらの曲は、バロック音楽っぽく聞こえるけれど・・・。


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ネムネコ、沈没する!! [ひとこと言わねば]

二項関係、同値関係、同値類、商集合についての記事を書こうと思ったのだけれど、まず、二項関係を表す記号で困り、
――xRyなどで表すのが一般的なのだけれど、これでは、読む者が関係Rを実数全体の集合Rと混同するなど、読者に無用な混乱を与えるおそれがある――
問題を選ぼうと問題集を覗けば、答だけが書いてあるだけで、どのように解答を書いたらいいのかの参考にまったくならない。

ネムネコが思うに、「問題集の著者たちも、どう、解答を作ったらいいのか困り果てた挙句、答だけを書いたに違いないにゃ。」

困ったな〜、ホント。困ったんで、踊るにゃ。


これで、三歩あるけば、すべてを忘れられるにゃ。

問題 実数全体の集合をとする。次のように、上の関係Rを定めると、反射律、対称律、推移律、反対称律のどれを満たすか。

 

R上の関係とするとき、任意のに対して、

 

この二項関係Rが反射律、対称律を満たし、推移律、反対称律を満たさないことは問題を見た瞬間にわかるにゃ。
記事作り、解答作りの参考にしたいので、こう解答を作ったらいいんじゃないか、読者は分かりやすいんじゃないですか、というサジェスチョンがあったら、それを教えて欲しいにゃ。


でないと、何が書いてあるかわからない、世にも恐ろしいものを見ることになるにゃ。


オレが地獄に落ちるときは、お前らも道連れだにゃ。

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今日のアニソン、「人生」から『凸凹解決せんせーしょん』 [今日のアニソン]

今日のアニソンは、アニメ「人生」から『凸凹解決せんせーしょん』です。


「凸凹」という言葉に強く反応し、この曲をセレクトしたにゃ。数学、特に解析において「凸凹」はとっても重要だからねっ。


このアニメのヒロインは、高校生ながら、理系科目が大学レベルに達しているそうだけれど、ネムネコはもっとスゴイにゃ。ネムネコの算数レベルは、小学生の2年レベル以下だから(^^)


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個数ってなんだろう? 同数ってどういうこと? [集合論入門]

個数ってなんだろう? 同数ってどういうこと?

 

§1 個数って何だ? 同数ってどういうこと?

 

また、ネムネコが⑧以下なこと、あるいは、⑩以上なことを言い出したと思うかもしれないけれど、これからネムネコが数学の記事の内容と深い関係があるので、少し考えてみようじゃないか。

 

A={ネコ, イヌ、 サル}、B={鰹節, ジャーキー, バナナ}というものの集まり(集合)があるとする。

さてさて、

集合ABの元(要素)の個数はどちらが多いでしょうか?

 

ABともに元の数は3だから等しい、同数だ。こんなことは見ればすぐにわかるだろう。」

 

もっともな答えだ。しかし、この解答は、我々が数という概念を有し、しかも、「ひとつ、ふたつ、みっつ、・・・」と数を表す言葉を持っているからできることだ。数を知らない小さな子どもが「ひとつ、ふたつ、みっつ」と集合ABの元の個数を数え上げ、それから、「どちらもみっつだから、等しい」なんて芸当はできないだろう。だから、小さな子どもを納得させるためには、小さな子どもの目の前で、(ネコ、鰹節)、(イヌ、ジャーキー)、(サル、バナナ)と1対1に対応させABの元の数が同数であることを示すしかないに違いない。

現に我々は、小学校に入学してから、算数学習の小道具として、数を学ぶために「おはじき」を渡されたではないか。

 

原始的な、未開の――どちらも差別語になるかもしれない(>_<)――の部族の中には、両手の指で折れる10までの数しかないところもあるらしい。ネムネコが中学生の頃に読んだ本には、「1、2、3、いっぱい」という風に、数は1、2、3の3種類しかないところがあると書かれていた。日本のように、とんでもなく大きい数にまで、数え方、単位がある国の方が異例中の異例だ。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%A4%A7%E6%95%B0

 

 

 

それでも、3まで知っていれば、A={ネコ, イヌ、 サル}、B={鰹節, ジャーキー, バナナ}の場合については、数え上げることで、この両者が同数であることを確認できる。しかし、ABの元の個数が10を越えていたら、小さな子どものように、集合ABの元を1対1に対応させ、同数であることを確かめる以外に方策はないケロ。

 

このことを数学的に書けば、AからBへの写像fのなかに、

  f(ネコ)=鰹節, f(イヌ)=ジャーキー, f(サル)=バナナ

1対1の対応全単射)の写像fが存在するってことになるのでしょう。そして、この1対1対応(全単射)が一つでも存在すれば、ABは同数であるということになる。

しかし、この1対1の対応は3³=××=27通りある1対1の写像の一つにしかすぎないのだ。

我々は、

  f(ネコ)=バナナ, f(イヌ)=鰹節, f(サル)=ジャーキー

という組み合わせなどを考えることなく、先に示した

  f(ネコ)=鰹節, f(イヌ)=ジャーキー, f(サル)=バナナ

などのたった一つのAからBへの1対1対応の写像の存在を根拠にABの元の個数が同数であると判断している。このことを、無証明に、アプリオリに、我々は何の疑いもなく受け入れているのだ。

それでも、ABの元の個数がともに3個ならば、1対1の写像の数は27通りだから、この27通りの写像をすべて列挙して確かめることができるだろう。

しかし、ABの元の個数がともに10個ずつならば、1対1の写像の数は10¹⁰=10億となり、10個になったら、実質、確かめる術がない、お手上げになってしまう。

有限の場合ですら、「原理的に全てを調べられる」と「実際に全てを調べられる」とは違うってわけだにゃ。

 

でだ、

ここでABの他に自然数の集合K={1, 2, 3}が登場する。

集合Aの元の個数を「ひとつ、ふたつ、みっつ」と数え上げることは、たとえば、

  g(ネコ)=1, g(イヌ)=2, g(サル)=3

と、Aの元とKの元を1対1に対応させ、AKの元を、ともにもれなく、1対1の対応で結びつけることに他ならない。

次は、集合Bの元をすべて数え上げて、集合Bの元とKの元を、たとえば、

  h(鰹節)=1, h(ジャーキー)=2h(バナナ)=3

といった具合にBKの元をともに過不足なく1対1の対応で結びつけ、BKが同数であることを確認する。

そして、Aの元の個数がKの元の個数と等しく、かつ、Bの元の個数とKの元の個数が等しいから、ABの元の個数は等しいと判断する。

集合ABCの元の個数をそれぞれ|A|、|B|、|K|とするとき、

  

と判断しているんだケロよ。

 

これに対して、AからBへの1対1対応の場合は、

  

であることを直接示している。

 

ネコと鰹節といった直接的な現物対応ですら胡散臭いところがあるというのに、ネコと1、鰹節と1、または、1と鰹節、といったモノと抽象的な数との対応、そして、それを取り持つものというわけのわからないものを使っているので、両者の数を数えて同数であると判断することの胡散臭さは、勢い、その2乗くらいになってしまう(笑)。

だから、我々、⑨の一族、眷属は、原始的な、プリミティヴで、より曖昧が少なく確実な、ABを直接比較する手法を選択すべきに違いない(^^

 

さてさて、ABを3個という有限集合から無限集合へと拡張しよう。

そして、有限集合のときと同様に、

無限集合AからBへの1対1対応(全単射)が一つでも存在するならば、ABの元の個数、|A|と|B|が等しい、

  

としたら、どうなるのであろうか。

 

Aを自然数全体の集合、つまり、

  

とし、Bを偶数全体の集合、すなわち、

  

とする。

  

とすると、これはAからBへの1対1対応(全単射)になる。

AからBへの1対1対応の写像が一つあればABの元の個数は等しいとなるので、

  

となる。

同様に、奇数全体の集合{1, 3, 5, ・・・}をCとするとき、

  

とすると、これは自然数全体の集合Aから奇数全体の集合Cへの1対1の写像になっているので、

  

となる。

仮に、自然数全体の集合Aの元の個数を(「あれふ・ぜろ」と読む)とした場合、

  

偶数全体の集合Bと奇数全体の集合Cとの共通部分は無い、つまり、B∩C=∅(集合BC互いに素)なので、

  

である。ここで、記号「+」は直和(注)を表す。

ABCが有限集合の場合、(1)が成立するとき、

  

となるので、これから類推すると、

  

といった(奇妙な)等式が得られる。

さらに、有限集合の場合、(1)のとき

  

が成立するので、無限集合の場合も同様と考えると、

  

とさらに奇妙なことが起きる(^^

つまり、無限集合を扱う場合、我々の常識はほとんど通用しないのであった。

 

 

(注)

互いに素な集合ABの和集合をABの直和といい、これを記号A+Bで表す。

つまり、A∩B=∅のとき、

  

たとえば、A=1, 2}、B=3}とすると、ABの交わり(共通部分)はなく、A∩B=∅。このとき、

  

(注終)

 

このあたりの事情はは、∞の演算に似ている。

  

は演算規則として認めるけれど、

  

という算術は認めないからね〜。

 

地動説、ならびに、地動説を唱えて宗教裁判にかけられ、裁判後に「それでも地球は動いている」と呟いたとされるガリレオさんは、「自然数全体の集合、偶数全体の集合、そして、奇数全体の集合の元の個数は同数であるに違いない」と考えた。

しかし、

ガリレオさんの時代は、

偶数全体の集合は、自然数全体の集合Aの真部分集合であり、BAの部分である。そして、部分は全体より必ず小さい。全体は部分よりも必ず大きい

とされており、天動説同様に、このことは絶対の真理とされていたので、

ガリレオさんは、ついぞ、「自然数全体の集合の元の数と偶数全体の集合の数は同じである」と言うことができなかった。

だって、これは地動説以上の危険思想だから。

無限に喩えられるキリスト教の神そのもの、その唯一絶対性、万能性を揺るがしかねない超〜危険思想だからね〜。

こんなことを人前で言ったら、ローマ教会は絶対に黙っちゃ〜いない。そして、ガリレオさんは火炙りを避けられなかったと思うよ。

 

無限集合、集合論の創始者とされるカントールは、「ガリレオは、大胆に、前進すべきであった」と言ったとか、言わなかったとか。

そりゃ〜、そう言うのは簡単だけれど、

そこから前進し、その研究成果を公表したら、間違いなく、異端審問でひどい拷問を受けたあと、その先には火炙りが待ち構えているんだから、前進はできないって。

ひそかに下克上を企んでいるネムネコですら、思わず、二の足を踏んでしまうにゃ。

 

 

こんなことで死ぬのは、ゴメンである。

 

 

 

§2 秀吉サルさんと1対1対応のお話

 

あるとき、秀吉サルさんは、「この山に木は何本あるんだろう?」と疑問に思った。

そこで、賢い秀吉サルさんは、配下の動物たちに、「お前ら、できるだけ多くのヒモを持ってこい」と命じた。

秀吉サルさんは、結構、おっかないから、配下の動物は、「いったい、これで何を始めるつもりなのだろう」と疑問に思いつつも、ヒモをいっぱい集めてきたにゃ。

そして、山のように集まったヒモを見て、秀吉サルさんは、「お前ら、ヒモの数を数えろ」と命じた。そして、配下の動物たちがヒモの数を数え終えると、「そのヒモをあの山にある全ての木(の枝)に結んでこい。一本の木に一本のヒモだから、間違えるんじゃないぞ」と命じた。

配下の動物たちは、なにがなんだかわからないまま、秀吉サルさんに命じられるままに、そのヒモを山にあるすべての木に結んだ。そして、それを終えると、秀吉サルさんのもとに帰っていった。

秀吉サルさんは、配下の動物たちが全て戻ってくると、今度は余ったヒモの数を数えさせたにゃ。

そして、秀吉サルさんは、残ったヒモの数から山にある木の本数を知ることができたそうな。

めでたし、めでたし。

 

これを数学的に書くと、

Aを「山の木のあつまり」、Bを「集めたヒモのあつまり」、さらに、B₁Bの部分集合とし、fAからBへの写像、すなわち、

  

とする。

秀吉サルさんは、

  

という1対1の対応fを利用し、山にある全ての木の本数を知ろうとしたんだケロ。

そして、これは、(無限)集合間の元(要素)の個数の大小関係をはかるために使われる、唯一と言ってよい、集合論の手法なんだにゃ。

 

秀吉サルさんは、1対1の対応、ならびに、1対1の対応を使った物の個数を知る方法を知っていて、賢いにゃ。

 



実際に、このようなことがあったのかどうかは定かではないけれど、この話を聞いた時、ネムネコは「秀吉サルさんはスゴイ」と思ったにゃ。
これも眉唾話しなのだけれど、
秀吉サルさんから褒美を下される際、何を希望するか尋ねられたソロリキツネは、今日は米1粒、翌日には倍の2粒、その翌日には更に倍の4粒と、日ごとに倍の量の米を100日間もらう事を希望した。米粒なら大した事はないと思った秀吉サルさんは簡単に承諾したが、日ごとに倍ずつ増やして行くと100日後には膨大な量になる事に途中で気づき、他の褒美に変えてもらった。
https://goo.gl/zcCBZ6

この話は、インドの昔話をもとに作られたものらしいね。仏教を通じて、日本人は、インドの昔話の他に、古代インドの算数を知っていたらしいんだよね。先に紹介したとんでもなく大きい数の単位も仏教のお話が元になっているのであった。

2のホニャララ乗、2のべき、そして、冪集合の元の個数がとんでもないものだということを知る、良い例ではないだろうか。


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