ラッセルのパラドックス、そして、・・・ [数学基礎]
ラッセルのパラドックス、そして、・・・
第1回 ラッセルのパラドックス その1
ラッセルのパラドクス関連をやるんですかぁ~?。ラッセルのパラドクスからベリーのパラドックスへ厳密にいたろうとすると、とても長ぁ~い長ぁ~い話になりそうで。だからサワリのみという事で・・・(^^;)。
以下は「ネムネコ幻想郷」の方でプロゲラさんと話してた時に言った事と、だいぶ重複します。
事の起こりは、カントールの無限集合論でした。カントールさんは現在においても必要な不可欠な、無限に関する定理を「幾つも」導いたのですが、その無限集合論の基礎は「素朴集合論」でした。
「人間が思考によって弁別しうる全ての事柄は、思考の中では集める事が出来て、その集まりを集合(Set)と言う」が、「素朴集合論」の定義です。いかにも現代っぽくない「緩さ」がそこにはあります。
カントールさんはそのユル~イ路線のもとに、有用でもあり驚異でもあったたくさんの結果を得ます。しかしほどなく、「素朴集合論」に色々とまずい点が発見されます。
それでも集合論は役に立つ!と認めていた人達は、あんまり無茶な事をしなければ大丈夫だという感触でもって、「素朴集合論」を支持し続けました。例えば「全ての集合の集合」のような超巨大なぶっ飛んだ集合を考えない限り、「素朴集合論」でも安全だと。
その代表が、普通の数学的作業で絶対に使用する「自分自身を要素として持たない集合」です。例えば自然数全体の集合Nに、N自身は要素として属しません。Nは自然数全体の集まりであって、自然数ではないからです。「自分自身を要素として持つ集合」は常識的に考えてやり過ぎだから、そういう真似さえしなければ安全なはずだと。「素朴集合論」においても最初からカントールは、こういう事を非常に注意深く区別していました。だから、
「人間が思考によって弁別しうる全ての事柄は、思考の中では集める事が出来て、その集まりを集合(Set)と言う」
という定義で十分だと考えていたと思われます。無限集合論の信奉者達は、考える集合を「自分自身を要素として持たない集合」あたりにとどめておけば、安全圏に逃げ込める!と考えた訳です。
ところが論理の鬼であるラッセルは「それでも駄目だ!」と証明します。以下がラッセルのパラドックスです。
Aを、自分自身を要素として持たない集合の集合とする。Aは自分Aに属するのであろうか?、属さないのか?。
このようなAは「ぶっ飛んだ集合ではないのか?」という意見はきっとあると思うんです。でも集合は、このように使うべきものなのです。
なぜ集合を使うのかといえば、ある条件を満たす全てのものを一括して扱いたいからです。
だとすれば、通常の数学的作業で普通に使用する「「自分自身を要素として持たない集合」の集合」くらい一括して扱えないと、その有用性には、非常な疑問符が付くからです。
ラッセルは疑問符を決定打にします。
「A∈Aである」とする。Aは自分自身を要素として持たない集合の集合だから、「A∈Aではない」。
では「A∈Aではない」としよう。Aは自分自身を要素として持たない集合の集合だから、「A∈Aである」。
これがラッセルのパラドックスです。
長くなったので、とりあえずここで終わります。
(執筆:ddt³さん)
第2回 ラッセルのパラドックス その2
で、ラッセルのパラドックスを導いてしまう「自分自身を要素として持たない集合の集合A」の定義のどこが不味いんでしょう?。
集合の定義の仕方には二通りあります。一つは「これこれの条件を満たすもの全て」というやり方です。これを集合の内包的定義と言います。
もう一つは{a,b,c,d,・・・}などと、とにかく要素を並べて見せてみて、これらa,b,c,d,・・・に共通の性質が集合{a,b,c,d,・・・}の定義だ!というやり方です。これを集合の外延的定義と言います。
集合論の(暗黙の)大前提は、内包的定義の結果と外延的定義の結果は一致する、です。
上記を「自分自身を要素として持たない集合の集合A」に適用してみます。内包的定義条件から、
A={空集合,{0},{0,1},・・・,N,Q,R,C,・・・}
となる訳です。ここでNは自然数全体,Qは有理数全体,Rは実数全体,Cは複素数全体など,・・・です。
「・・・」をどこまでも実行し続けその作業が終わったら(数学では終われる事になってます(^^;))、その中には{金星}とか{木星}とかもあるんですけれど(とにかく数学では出来る事になってます(^^;))、その全体は一個の「集合A」の外延的定義です。
こうやって並べて見せた全ての要素に共通の性質は、「自分自身を要素として持たない「集合の」集合A」という内包的定義に一致するはずだぁ~!、と思いたいたくなります。
でも駄目なんです。何故なら「Aも集合だから」ですよ!。Aも集合だから、「A自身も自分自身に属するか属さないかの内包的定義テスト」を受ける必要に迫られます。その結果がラッセルのパラドックスです。
「自分自身を要素として持たない集合の集合」のような定義が問題なのは、これによって定義された対象自体を、定義テストに差し戻さなければならない「定義」になってるからです。それが「集合の集合」の部分です。このような関係を自己言及パラドックスとか、自己参照定義と言います。こういうのがあると、必ず絶対矛盾します。
そして人間が無限を扱おうとする限り、こういう内包的定義をせざる得ないのです。人間は有限の物事しか扱えないので、他に途はないのです(^^;)。ですがでも・・・。
自己参照定義パラドックスとは、
・全能の神は、矛盾する盾と矛を作れる.
レベル程度の話ですよね(^^)。
そういう訳で「集合の集合」を用いる議論の全部が駄目だとは思わないで下さいね。
集合の集合なんか同値関係なんかで普通に使いますからね。そういう考えは数学の日常業務において、絶対に必要なものであり、現実的に考えて「全く矛盾するものではありません」。
そういう訳で現代的集合論の開発者達は、
・自分自身を要素として持たない集合の「集まり」.
は、「集合でない!」と決めたのです!。
これによってラッセルのパラドックスは回避されました。要するに「自分自身を要素として持たない集合の集合」は、ぶっ飛び過ぎの集合だとやっと認めたんです。
彼らを責めないで下さい。こういう事は「やってみなけりゃ~、わからない」んですよ(^^)。
この決定は、論理の完全性を求めるラッセルにとっては非常に不本意な結果だったとは思いますが、現実主義的な職業数学者達にとっては当たり前の話でした。
信じられないかも知れませんが、数学の先生達ってけっこう、数理的なリアリストなのです(^^;)。
(執筆:ddt³さん)
第3回 ペリーのパラドックス、そして、・・・
自己参照定義の不味い点は、内包的定義によって定義した外延を、内包定義テストに差し戻さなきゃならない「定義」になってる点です。差し戻した結果、集合論の大前提である内包と外延の一致の破綻が発覚します。
ところが無限集合において、内包と外延の不一致はよく起こります。でも有限集合ではたぶん起こりません。
例えば世界中から赤いものを集めてきて、それを「赤の定義」にする事は可能と思われますが(赤集合とする)、その外延はどう頑張っても有限個です。
赤集合のどの要素を取り出しても赤いはずです(内包テスト)。また外延を遠くから眺め渡せば、全体として「真っ赤」なはずです(^^)。つまり外延も内包テストをパスします。
しかし自然数の集合Nはどうでしょう?。自然数全体とは任意「有限」の集まりです。よってNのどの要素を取り出しても有限です。一方、外延としてのNは可算無限個の濃度を持ちます。つまり外延を遠くから眺め渡すと、無限である事がわかります。しかしNの内包的定義N={n|nはペアノ公理系で生成されるもの}は、外延としてのNの差し戻しを要求しません。外延としてのNは、ペアノ公理系で生成されたものではないからです。このように通常の無限集合論は、非常に危ない橋を渡ってます(^^;)。
さてベリーのパラドックスです。リシャールのパラドックスは、ベリーさんのをもっと複雑な数学的状況で考えたものと思われます。Wikiにはこうあります。
「19文字以内で記述できない最小の自然数」を考えよ。
どんな言語を使ってもいいのですが、一つの言語で使用する文字数は絶対に有限個です。それをnとします。そうすると先の文言から、
「19文字以内で記述できる最大の自然数」の定義
を考えると、最大でn¹⁹通りの定義が生まれる事になります(註)。
それぞれの定義による最大の自然数が全部違ったとしても、n¹⁹は有限です。
よってそれぞれの最大の自然数を集めた集合も有限集合なので、必ず最大元mがあります。「19文字以内で記述できない最小の自然数」は、m+1を取ればOKなので、「19文字以内で・・・」を満たす自然数は必ず存在します。
しかし「19文字以内で記述できない最小の自然数」という文章を、m+1の「内包的定義」とみなせば(みなせる!)、「19文字以内で・・・」は「」を除けば19文字なので、m+1は19文字以内で記述できた事になります(^^;)。これはネコ先生のパラドックと似た状況です。そしてもっと巧妙に仕組まれています。
でもベリーのパラドックスは、定義した外延{m+1}を内包定義テストに差し戻すように、「自己参照定義を意識的に作りだした」と思えませんか?。普通はこんな事、絶対にしません。普通は記号と記号の内容を区別するからです。しかし全能であるはずの数学は、こういった状況にも対処できなければならないと、昔の人達は考えました。
「19文字以内で・・・」をm+1の「内包的定義」とみなせるのは、行間読み(誤解の余地)が可能だからです。行間を潰せばいいんです。それがヒルベルトの形式主義だと思います。
数学は、厳密に運用を規定されたごく少数の記号と文字のみによって書く。任意の文字を任意に導入できるようにはするが、導入した文字列や記号列は、厳密に規定された運用規則に則って運用しなければならない。
そうやって出来上がった「記号の羅列」が数学的文章である。要するに数学とは、記号の運用規則が全てなのだ。
あなたに数学的能力が十分にあれば、その「記号の羅列」を通常の数学の記述と同じように読み解けるだろう。従って原理的に既存の数学的資産は、全て保存される。
その「記号の羅列」を、ベリーのパラドックスのように誤解して読む事も可能だ。しかしそんな事は我々の知った事ではない。
通常の数学の記述として読める厳密な運用規則に従った記号列の列が、厳然として存在するのだから、その存在でもって数学的証明の確実性は保証される。
もし誤解して読んだなら、我々は「あなたは解釈を間違った」と言うだけだ。数学的事実は、記号列という物理的実体によって保証されている。その存在は解釈とは無関係だ。
・・・だと思うんですけどね(^^;)。
この立場も、論理の絶対性を信じたラッセルにとっては非常に不本意な状況だとは思うのですが、とにかく実用的には役に立つし、問題ないので、こうして公理主義的集合論が始まります。
・我々はついに、誤解から解放されたのだ!(^^)。
という訳です。
(執筆:ddt³さん)
(註)
使用する文字が{0,1}の2種類、文字数は4文字以内、つまり、3文字以下の場合について考える。
1文字の場合:<0>,<1> 2通り
2文字の場合:<0,0>,<0,1>,<1,0>,<1,1> 2×2=2²通り
3文字の場合:<0,0,0>,<0,0,1>,<0,1,0>,<0,1,1>,<1,0,0>,<1,0,1>,<1,1,0>,<1,1,1> 2×2×2=2³通り
だから、2+4+8=14通り。
これは、等比数列の和の公式を使って次のように計算することができる。
同様に考えると、
n種類の文字を19文字以内使用する場合、すなわち、使用できる文字数が18文字以下の場合、
n=1のときは18通り。
ネムネコによる英語講座(笑) [ひとこと言わねば]
Nemuneko is dying. (1)
同様の観点から、ある時刻から現在も続いているという「継続」の観点から、
Nemuneko has dead. (2)
(1)の「Nemuneko is dying.」だと、今限りなく死に近いけれど、もう、ほとんど死んでいるけれど、現時点ではとりあえずまだ生きていて、死に向かって突き進んでいる真っ最中という意味になってしまう。(2)は微妙だね。文法的にまったくの間違えかといえば、一概に間違いと言い切れないだろうけれど、普通は、
Nemuneko is dead.
と、英語では言う。じゃぁ、「Nemuneko is dead.」の「is」は、「Nemuneko is cute.」や「Nemuneko is a cat.」の「is」と同じ意味、用法かと尋ねられると、これがまた難しい。「dead」を形容詞と考えると「同じ」と言えるし、「dead」は「過去分詞」と考えれば、これは(2)のhasと同じく現在完了の意味を表す助動詞と考えることもできる。英語の助動詞は、主語の人称(一人称、二人称、三人称)によってその活用は変化しない(たとえば、I can fly. He can fly.)ので、「Nemuneko is dead.」の「is」を助動詞と考えると、英文法的には特例的な扱いをする必要があり、すこしマズいことになる。
英語は難しいね〜。
Some cat speaks Japanaese.
英語が得意な中学生ならば、「someは複数を表すので、この文章中のcatは単数形ではなく複数形のcats、そして、主格が単数から複数に変わったので、これに呼応して、動詞をspeaksからspeakにしなければならない。」
如何にも優等生らしい模範的な回答。でも、間違いだ。この文のsomeは複数を表す意味ではなく、「あるネコは日本語を話す。」または「日本語を話すネコがいる」の意味をあらわすsomeであって、たとえ、そのネコが複数いても、そのようなネコが複数確認されていても――すくなくとも、ネムネコ、東方のお燐、2匹のネコの存在が確認されている――、このような用例ではcatを複数にしてはいけない。
Any cat can be a king.(どんなネコだって王様になれる)
に出てくる「any]の訳語だにゃ。数学を学ぼうとする大学生を絶望の淵に追い込む、悪名高いε-δ(イプシロン・デルタ)論法
これを英語にすると、こんな感じ。
For any ε>0, there exists a δ>0 such that ,for any x∈S, if 0<|x−a|<δ, then |f(x)−l|<ε
これらの記号の元になった英語ですら、もはや、英文の体をなしていないんだから、そりゃ〜、これを読み解けって方が土台無理な話。
それでも、これを、無理やり、何とか意味の通じる数学翻訳語にすると、
任意の正数ε>0に対して、Sに属する任意のxに対して、0<|x−a|<δならば|f(x)−l|<εが成立すような、ある正数δ>0が存在する。
――(註) 英語本文中の不定冠詞aは「一つの」、「ただ一の」の意味で付けられているのではなく、先ほど述べた「some」と同じ役割を持つ。「すくなくとも一つありゃ〜いい」という、数学者、または、著者の、極めて無責任な、投げやりな態度をこのa一語で見事に表現している。したがって、その個数は「自然数程度の無限個」を越えてもよい。個数ではないが、アレフ個でも構わない。fが連続関数ならば、個なんてザラだ。
アレフ数 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%95%E6%95%B0
――
0<|x−a|<δならば|f(x)−l|<ε
である。
日本語的にこなれていないので、この数学翻訳語は好きじゃないけれど・・・。
I saw a cat in a park.
これを日本語に訳す必要はないと思うけれど、とりあえず、「(私は)公園でネコを見た」と訳すことにしよう。ただし、この日本語訳が正しい保証はないので、その点は留意して欲しい。
では質問しよう。
私が(その)公園で見たネコは何匹でしょうか?
そのネコは公園にいましたか?
私はどこでそのネコを見たのでしょうか?
今日のアニソン、「屍鬼」から『カレンデュラ レクイエム』 [今日のアニソン]
これでは、この楽曲から霊感を受けて、文章を書けないにゃ。
ということで、このアニメのED曲を。
考えるネムネコ2 [数学基礎]
ネムネコ、次の問題に思い悩み、悪戦苦闘する。
問題 a、bを正の整数とするとき、
【解】
(解答終)
この問題を解くことは簡単だ。
そんなことで思い悩んだのではない。
この式がどこから出てきたのかがわからなかったのだ。
悔しい。何としても、この式の秘密を解き明かしたいということで、考えてみた。
結論からそのアイデア、発想をたどるという逆の作業はなかなか難しい。
だから、すぐには、わからなかった。
しかし、そこはそれ、
閃き(思いつきとハッタリ)のネムネコ。
「この式は数直線上の1と2をa:bで内分した点じゃないか」と天啓のごとく閃いた。(すぐに気づけよ、ボケ!!)
じゃあ、は何を表している?
これは、0と1をb:b−aに外分する点だ。
――1をb/a倍したとは言わない。あえて外分という言葉を使い、強い、幾何的なこだわりをみせる(^^ゞ――
そして、2は何だ?
√2の根号の中身だ。
そこで、0と1をb:b−aに外分する点(以降、外分点と呼ぶ)b/aと1と2をa:bに内分する点(以降、内分点と呼ぶ)との大小関係を調べるために差をとってみる。
このまま計算してもいいが、
とおくと、
ということで、
つまり、
b/a=√2のとき、
となり、外分点と内分点は一致するけれど、b/aは正の有理数、√2は無理数なので、これは等号で結べない(^^)
これで、もう解けたもののようだけれど、念には念を入れよう。
0と1の外分点tは、tが増加すれば、単調に増加する。
1と2の内分点は
だから、これは単調に減少する。
ということで、
となる。
どうやら、この式は図形的、幾何的着想から生まれたようだ・・・。
実は、図形的、幾何的な部分は、あとから生まれたもので、この部分はまったく不要。むしろ邪魔(^^ゞ
⑧以降のように解いたあと、分母の1という数字は何だ、どこからこの数字1は出てきたという暗中模索状態下で、「これはきっと幾何が絡んでいるに違いない」と考え、自分を納得させるために無理やりひねり出した理屈。
ではあるが、A(0)、B(√2)、C(1)、D(2)とすると、
このような点の配置になっている。
これは解答ではないケロよ。
ネムネコの暗中模索の格闘記だにゃ。
この点は、しっかりと留意して欲しい。
これにて一件落着と考えるのは、⑨未満だにゃ。
⑧は
だが、2をm>0としたら、
だから、外分点と内分点が一致するのは、
上と同様の議論から、
という関係が得られる。
なお、ここでいう内分点とは1とmをa:bに内分する点
のことである。
とすると、
コーヒーブレイク 直線ax+by+c=0と点(x₀,y₀)の距離 [線形代数の基礎]
コーヒーブレイク 直線ax+by+c=0と点(x₀,y₀)の距離
最近、抽象的で難しい話ばかりしていたかもしれないので、少しばかり、コーヒーブレイクを入れて、一休みしよう。
問題
直線ax+by+c=0(a≠0またはb≠0)と点(x₀,y₀)の距離dは
であることを示せ。
「どこがコーヒーブレイクだ」と怒られそうですが、まあ、そう怒らないで。
この式(1)は、高校の数学に出てくる公式(のようなもの)だから、見覚えがあるだろうし、実際、数学の試験などで使ったことがあるのではないか。
何はともあれ、問題を解いてみようじゃありませんか。
【解】
点P(x₀,y₀)から直線ax+by+c=0におろした垂線の足をHとする。
直線ax+by+c=0とベクトルは垂直だから、はは平行。
したがって、
H(x,y)は
と表すことができる。
①をax+by+c=0に代入すると、
よって、
(解答終)
このように、ベクトルをうまく活用すれば、Hの座標を求めることなく、直線と点との距離の公式(1)
を求めることができる。
では、ここで宿題
宿題
直線ax+by+c=0に関してP(x,y)と対称な点Q(x',y')を求めよ。
わからないって!!
①と②を使えば、Hの座標を求めることができるでしょっ。
そして、HはPとQの中点だから、
あるいは、
って、これでは答を教えたようなものじゃないか!!
どうやら、書きすぎてしまったようだ(^^ゞ
そして、これは、原点を通る直線に関する対称移動2の別解にもなっている。
この宿題ができたヒトは、宿題で求めたPからQへの写像が一般に1次変換にならないこと、そして、c=0のときに線形写像、つまり、1次変換になることを示し、この1次変換を表す行列を求めてみるといい。
特に、a²+b²=1のとき、つまり、が単位ベクトルであるとき、どうなるか調べよ。
この記事に何が書かれているかわからないヒトは、次の問を解いてみるとよい。
そうすると、問題の解答で何が書かれているのかがわかってもらえるのではないか。
問 直線y=2x+1がある。このとき、次の問に答えよ。
(1) 直線y=2x+1に垂直な直線の傾きを求めよ。
(2) 点(2,1)を通過する直線y=2x+1に垂直な直線lの方程式を求めよ。
(3) 直線y=2x+1と直線lの交点を求めよ。
(4) 点(2,1)と直線y=2x+1と直線lの交点の距離を求めよ。
【解】
(1) y=2x+1に垂直な直線の傾きをmとすると、
(2)
(2)の別解
直線lの方程式を
とする。
点(2,1)はこの直線上にあるので、
よって、直線lの方程式は
(3) y=2x+1とより、
よって、
よって、交点は
(4) (2,1)と(2/5,9/5)の2点間の距離は
(解答終)
直線y=2x+1は直線2x−y+1=0と同じ。
したがって、(1)式より、直線2x−y−1=0と(2,1)の距離は
⑨未満の一つ覚えのように、公式(1)を使って、直線y=2x+1と点(2,1)の距離を求めるよりも、一度、この問の解答のように手順を踏んで直線の距離を求めた方が具体的なイメージをつかむことができ、実り多いものになるのではないかと思う。
最近、訪問者数が減っている(>_<) [ひとこと言わねば]
2月1日に訪問者数が700を超えていたのに、昨日、2月25日は約400とこの1ヶ月足らずの間に半減してしまった。
このブログは、大学が長期休暇に入ると、訪問者数が激減するんだケロ。ということは、このブログの訪問者の多くは理工系の大学生、たぶん2〜3年生ということになるのかな。当初、微分積分を学ばなかった、高校で習ったけれど忘れてしまった文系出身の人向けに開設したブログであったが、多変数関数の微分積分、複素解析、ベクトル解析など、大学の理工系学生を対象にしたものになっていったから、おそらく、そうなんだろうと推測している。であるとすれば、狙い通りなので、嬉しいね。とはいえ、この訪問者数の半減によって、4位まで上がった順位が6位にまで下がってしまった。ということで、
お前ら、春休みだから何か特別なことをするわけではなく、暇してるんだろう。だったら、落ちた順位が上がるように、スマホだけではなく、ここにアクセス可能な、ありとあらゆるディバイスを使って、ここにアクセスしやがれ!!
飽和食塩水溶液に砂糖は溶けるか [お前らに質問]
溶けることは溶けるが、純水の場合と比較すると、飽和食塩水溶液に溶ける砂糖の量は減少するのかもしれない。
そのメカニズムは説明できないけれど、これはあり得そうな話だ。
でも、化学が得意なヒトは、意外と、数学、物理が苦手なヒトが多かったりするよね。そして、こういうヒトたちは、大学で物理化学に出会い、沈没する。「オレはこんなことを勉強したくて、大学に入った(化学を専攻した)のではない」と絶叫するのであった(^^ゞ
前期:量子論、初歩的な量子力学=微分方程式(の応用問題)
後期:化学熱力学=偏微分に出てくる全微分(の応用問題)
と捉えていたから(^^ゞ
現象の科学的な意味など一切無視し――電子などの量子は波か粒子か、波動性、粒子性とは何かといったことは一切考えない。シュレディンガーの波動方程式や熱力学の第1、第2法則がすべて!!という形式的立場――、ただの微分積分の応用と捉えれば、こんなチョロい(あまり試験勉強をしなくてもテストで高得点を取れる)科目はなかった。これは、あくまで、大学の一般教養で習う物理化学入門レベルの話ですよ。専門的な物理化学が易しい学問だという意味ではないので、この点は注意。
https://jspp.org/hiroba/q_and_a/detail.html?id=308
ネムネコの目には無意味な文字の羅列、もしくは、暗号文のような複雑な化学式を見て、何故、その化学反応式をスラスラと書けるんだ。
まったくの謎だ。
そして、ネムネコが「どうしてこうなるんだ」と質問すると、「だって、こうなるでしょう。コレ以外の変化はありえないでしょう」と、事もなげに、抜かしやがる。オレはその「だって」を定量的に、エネルギー的に知りたいんだよ。そうでなければ、オレは、「こういう反応も、ああいう反応も・・・。この中のどれが起こるんだ」となって、判断できないんだよ。だから、通常の環境下では起こりえないような、とんでもない、化学反応式を書いてしまうのだ。
今日のアニソン、「カリメロ」から『好きなのプリシラ』 [今日のアニソン]
だって、コレ↓だもの。可愛いと思える方がどうかしている。子供の頃の感性なんて信用ならないものだ。
アヒル口は自然にできる口の形ではないから、十代の女の子は、自分を可愛く見せるために、他人(ひと)の見ていないところ、コッソリとアヒル口を作る練習とかをいたのだろうか。女の子は、色々と大変だね〜(^^ゞ
[線形代数ってなにさ?_5] [線形代数の基礎]
[線形代数ってなにさ?_5]
5.線形写像の標準分解
準備段階が済んだので、ここから具体的な話を始められます。内容はかなりブルバキの影響を受けてます。写像の標準分解がそれです。線形写像の標準分解を使うと、線形代数の構成への見通しが格段に良くなるが、持論です。ここが線形代数前半の山です!。
線形写像fを行列っぽく見せるためにAで表します。Axはf(x)の事です。また以後の話はn次元ベクトル空間VからVへの線形写像A:V→Vに限定します。このようなAは線形変換と呼ばれます。手始めに核空間です。
[定義-12]
Ax=0を満たすx∈Vの全体をAの核と言い、ker(A)で表す。ker(A)は部分空間になる。
Ax=0かつAy=0とします。
A(x+y)=Ax+Ay=0+0=0だからx+y∈ker(A)。
A(λx)=λAx=λ・0=0だからλx∈ker(A)。
従ってker(A)は部分空間。
そして像空間。
[定義-13]
任意のx∈Vに対するAx∈Vの全体をAの像と言い、Image(A)で表す。Image(A)は部分空間になる。
Ax∈Image(A)かつAy∈Image(A)とします。
Ax+Ay=A(x+y)=でx+y∈Vは自明だから、Ax+Ay∈Image(A)。
λAx=A(λx)でλx∈Vは自明だから、λAx∈Image(A)。
従ってImage(A)は部分空間。
写像の一般論として、1対1写像の事をここでは単射,上への写像の事を全射といいます。全単射(1対1かつ上への写像)なら逆写像(逆関数)がある事、およびその逆は当然とします。
[定理-2]
Aが単射である条件は、ker(A)={0}。
[証明]
Aが単射である条件は、Ax=Ayならx=yを示す事。
Ax=AyならA(x-y)=0。従ってx-y∈ker(A)。よってker(A)={0}ならx-y=0でAは単射。
逆にAが単射なら、A0=0は自明なのでker(A)={0}。
[証明終]
[定義-14]
ker(A)={0}となるAは、正則と呼ぶ。従って、Aが正則⇔Aが単射。
[定理-3]
Aが単射なら、独立なベクトル集合を独立なベクトル集合へ移す。
[証明]
{v1,v2,・・・,vn}を独立とする。Aの線形性から、
とすると、{Av1,Av2,・・・,Avn}が従属ならどれかのλjが0でなくてよいが、Aは単射なので、
がどれかのλjが0でなくても成り立つ事になり、{v1,v2,・・・,vn}が独立でなくなる。これは不可。
従って{Av1,Av2,・・・,Avn}が独立になる事が必要。
[証明終]
[定理-4]
Aが単射なら全射。
[証明]
{v1,v2,・・・,vn}をVの基底とする。
[定理-3]から{Av1,Av2,・・・,Avn}は独立であるが、A:V→Vなので{Av1,Av2,・・・,Avn}はVから作れる最大本数の独立なベクトル集合となりVの基底である。
Aが全射である条件は、任意のy∈Vに対してAx=yとなるx∈Vがある事。
{Av1,Av2,・・・,Avn}はVの基底なので、任意のy∈Vについて、
となる基底表現が存在する。Aの線形性から、
は自明なので、Ax=yとなる、
x∈Vが存在することになりAは全射。
[証明終]
[定理-5]
Aが全単射なら、A-1A=AA-1=EとなるA-1がある。ここにEは恒等写像。
逆に上記を満たすA-1があれば、Aは全単射。
[証明]
当然。
[証明終]
ここまでの結果をまとめます。
[系-1]
以下は線形変換A:V→Vにおいて同値。
Aが正則 ⇔ ker(A)={0} ⇔ Aは単射 ⇔ Aは独立なベクトルを独立に移す ⇔ Aは全射 ⇔ A-1あり。
[証明]
[定義-14]と[定理-2~5]による。
[証明終]
次の定理が線形変換の標準分解になりますが、必要な用語を写像の一般論からもう一個持ってきます。
写像f:X→Yの定義域XをD⊂Xに制限した写像g:D→Yを、fのDへの制限(縮小)と呼び、g=f|Dで表します。D上では明らかにf(x)=f|D(x)。
[定理-6]
Aの核ker(A)には直和補空間R(A)が存在する。A|R(A):R(A)→Image(A)は正則で全単射。
従って(A|R(A))-1が存在する。
Aが正則である条件は明らかにker(A)={0}で、このとき(A|R(A))-1=A-1かつImage(A)=V(図-1)。
[証明]
R(A)の存在は、前回の[定理-1]による。
A|R(A)が正則は、ker(A)とR(A)とA|R(A)の定義から、ker(A|R(A))=R(A)∩ker(A)={0}だから。
A|R(A)が全単射は、Image(A)に対して[定理-4]と同じ状況。(A|R(A))-1の存在は[系-1]。
最後に繰り返しになるが、ker(A)={0}ならR(A)=VだからVでAは正則。このとき(A|R(A))-1の定義より(A|R(A))-1=A-1は自明。Image(A)=Vなのは[系-1]による。
[証明終]
図-1 線形変換の標準分解
自分の意見では、図-1が線形写像の全てです。この図は、定義域の中で核空間を除外すれば任意の線形写像は、全単射で逆行列を持つと言ってます。核空間は{0}に写像するだけですから、実質的に使いたいのはそうでない部分ですよね?。そこが常に全単射で逆行列を持つという、素晴らしい性質です。
次の定理は勝手に次元定理と呼んでますが、[系-1][定理-6]と同等です。
[定理-7]
[証明]
Vの次元は明らかにdim(ker(A))+dim(R(A))。A|R(A):R(A)→Image(A)は全単射だから、[系-1]よりR(A)の基底をImage(A)の基底に移すので、dim(R(A))=dim(Image(A))。よって、
[証明終]
これでベクトル空間の固有空間による直和分解に進む事ができます。
今日のアニソン、「宇宙海賊キャプテンハーロック」から『わが友わが命』 [今日のアニソン]
同アニメから、さらに、この曲を♪
と同時に、演歌や歌謡曲の歌詞によく使われる言葉をコンピュータ(の発生する乱数)によってランダムに選び、それをならべると、売れそうな曲の歌詞になるという実験もやっていた。
このことは何を意味するのだろうか?
太陽系の惑星の数は8
8は一文字である
したがって、太陽系の惑星の数は一文字である
太陽系の惑星の数は8であり、これは真。8が一文字であることも真。したがって、太陽系の惑星の数は一文字であるという結論は正しいはずだ。しかし、「太陽系の惑星の数」は、カッコを除くと8文字であり、一文字ではない。したがって、この結論は偽で誤りだ。アリストテレスの時代から形式論理で真理とされた三段論法が敗れた瞬間だケロ!!
形式論理で不変の真理とされてきた三段論法の絶体絶命のこのピンチを救う解決策はあるだろうか?
――きっと、ddt³さんがこれに関係する話、たとえば、(集合に関する)ラッセルのパラドクス、について書いた記事をネムネコのもとに送ってくれるに違いない(^^ゞ――
Nothing is better than a wife.
1Yen is better than Nothing.
Therefore,
1Yen is better than a wife.
日本語と英語だと言語の形式が違うので、日本語だと三段論法にならないのだけれど、こんな意味だケロよ。
妻よりいいものは何もない。
何もないよりは1円の方がまだマシだ。
したがって、1円は妻にまさる!!
これは、数学の順序、大小関係の推移律を適用したものであり、このことを否定することは数学の大小関係を否定することに他ならない。したがって、数学のブログである「ねこ騙し数学」はこれを認めざるを得ない。
「Nothing is better than a wife.」という命題は、本音はどうであれ、建前として、絶対に受け入れざるを得ない大前提。
それとも、あなたは、この大前提を否定し、世の中のほとんどすべての女性を敵に回す勇気と覚悟がありますか(^^ゞ
そして、ここが重要なのだが、「惑星の数」云々の場合と違って、形式的に整っているだけに、事態はより深刻だ。
Unlocking the greatest mysteries
My key is a fearless heart
So pure and strong
「無」とは「ホニャララが存在する」ことの否定であり、本来、ホニャララ抜きで語ることはできない。にもかかわらず、ホニャララ抜きで、「無」とは何か、「無い」とは何か、といった哲学的問いがなされ、考究されてきた。特に東洋。こういう「問い」の仕方がそもそも間違っていたのではないか。
実は、これ、「有」、「存在(する)」についても当てはまること。「ホニャララがある」、あるいは、「ホニャララが存在する」の主語であるホニャララを抜きにして、「有」や「存在」を単独で「有とは何か」、「存在(する)とは何か」を語ることができるのだろうか。それなのに語ろうとするから、頓珍漢な議論になるんじゃないかと(^^ゞ
曰く、
「無から有が生まれた」
「無は万物の母である」
(^^ゞ
pを命題(真と偽のどちらか一方の値しか取り得ない文)とするとき、
と「¬」を定義する。ちなみに、等号「=」の上のdefはdefine「定義する」を略したもの。
真理表で書くと
p |
¬p |
真 |
偽 |
偽 |
真 |