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創世記6章に出てくる「ネフィリム」ってなんだにゃ? [ひとこと言わねば]

創世記第6章の1〜4節にかけて、ちょっと妙なことが書かれているだケロよ。

第6章
 6:1 人が地のおもてにふえ始めて、娘たちが彼らに生れた時、 6:2 神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。 6:3 そこで主は言われた、「わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎないのだ。しかし、彼の年は百二十年であろう」。 6:4 そのころ、またその後にも、地にネピリムがいた。これは神の子たちが人の娘たちのところにはいって、娘たちに産ませたものである。彼らは昔の勇士であり、有名な人々であった。
http://bible.salterrae.net/kougo/html/genesis.html

口語訳聖書だとわかりづらいのかもしれないので、比較参照のために、英語のKJVの訳も。

6
 And it came to pass, when men began to multiply on the face of the earth, and daughters were born unto them,

2 That the sons of God saw the daughters of men that they were fair; and they took them wives of all which they chose.

3 And the Lord said, My spirit shall not always strive with man, for that he also is flesh: yet his days shall be an hundred and twenty years.

4 There were giants in the earth in those days; and also after that, when the sons of God came in unto the daughters of men, and they bare children to them, the same became mighty men which were of old, men of renown.

https://goo.gl/Aw5Xh2

これを見るとわかるように、最も権威があるとされるキング・ジェームス版、つまり、欽定聖書では、ネフィリム(Nephilim・ネピリム)という語にに巨人(giant)という訳語を当てているんだにゃ。

なお、この箇所は、アダムとイブの楽園追放、アダム・イブのノアに至るまでの系統、そして、有名なノアの洪水の件(くだり)の直前にあるんだケロ。
ってことは、ノアの洪水が起きる前、この世界にはアニメ「進撃の巨人」に出てくるようにヒトを食ってしまう巨人が多数存在していたってことになるのか(・・?


こんな物騒な巨人が多数存在していたから、神は、ノアの洪水を起こし、ノアの一族を除き、巨人を一掃した(・・?

さらに、ここには、神の(息)子たち、the sons of Godという謎の言葉が出ているにゃ。
ってことは、
ユダヤ・キリスト教の神さま(God)には、キリスト教で神のひとり子(Son of God)とされるイエス以外に息子が何人もいるケロか?
これが真実だとすれば、いわゆるキリスト教は根本から破綻してしまう(>_<)。
それとも、神のひとり子・イエスは、ナザレのイエスとしてこの世界に現れるはるか前の、ノアの洪水以前に地上に降下し、ヒトの美しい娘と交わり、ネフィリムと呼ばれる子どもたちを設けたということになるのか。それで、「このバカ息子、何てことをしやがる」と父なる神が激怒し、息子のこの不行跡を正すためにーー事実隠蔽か?ーー、地に増えたイエスの息子たちを洪水で一掃した(^^ゞ。
こんなことがベリアルに知られると、如何に父なる神とはいえ、バカ息子・イエスを庇いきれないので、何かとうるさいベリアルに知られる前に、洪水を引き起こすことで、バカ息子・イエスの不行跡の証拠をすべて隠滅してしまった。

 ベリアル
 https://goo.gl/W3iSrU

なんたって、地上にお使いに出せば、いとも簡単に地上の人間の陥穽に落ちて、あろうことか磔にされるという大失態を演じるほど、父なる神に似ていない不出来なバカ息子だからね〜、イエスは・・・。少なくともイエス以外の他の御使いならば磔にされるという失態は演じないケロよ。他の御使いならば、きっと、ソドムとゴモラを焼き滅ぼしたように、火と硫黄でエルサレムを焼き尽くしたと思うにゃ。
旧約に出てくる神さまは律法の神であり怒り・復讐、妬み(最近、妬みではなく情熱と訳されるが)の神だから、愛の神・イエスとは違って、情け容赦なくすぐに厳罰を下すからね〜。ホント、イエスは親に似ぬ不出来な息子だケロよ。
このとき、未来永劫にペンペン草の一本も生えないほどにエルサレムを焼き尽くしていれば、現代のイスラエルとパレスチナ問題の半分(首都エルサレムの帰属問題)は解決していると思うにゃ。
イエスは「平和ではなく、剣をもたらすためにやって来た」とか、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。・・・。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うか。そうではない。言っておくが、分裂だ」と言っているので、ホント、質(たち)が悪いにゃ。なんでこの神さまはこんなに災いの種を人の世に蒔くにゃ。

それにしても、この「神の(息)子たち、the sons of God」って一体、なんだろうね?

実は、旧約聖書の創世記には、こういう奇妙な箇所、どう考えても辻褄が合わない記述がこの他にも多数存在するんだケロ。

この件について、ブラゲロ・マムシはどう考えるのか、その考えを聞いてみたいにゃ。
 ーーthe sons of Godを受ける動詞は単数、複数形のどちらなのか? 英語、日本語だとこの呼応関係がわからんのだよ。sonsと複数形になっているが、動詞が単数形のそれだとすれば、the sons of Godはイエスということになるんだよね〜。ーー

カトリックなどの正統キリスト教(?)からは偽典とされる「第一エノク書」には、この「神の(息)子たち」は、アゼザルらの天使ーー堕ちる前だから堕天使ではなく天使ーーのことで、アザゼルらの天使たちが美しい人間の娘たちに恋し、その娘たちと交わり、ネフィリム(巨人)たちを設けたなんてグノーシス的なことを書いてありますが・・・。


アザゼルが出たので、このアニソンも埋め込んでおこう。


「the sons of Godはアダムとイブを始祖とする男の子たちで、霊性において男子におとる女の子たちを”人の娘”で表している」と解釈することもできるのかもしれないが、男女平等が叫ばれる現代にこんなことを口にしたら、袋にされ、タコ殴りされてしまうので、そんな恐ろしいことを口にするわけにはいかないにゃ。


この動画の「たこルカ」のように、はちゅねミクにネギでタコ殴りにされてしまうにゃ。

それとも、ここに出てくる「神の(息)子たち」とは、ユダヤ教のタルムードなどに登場するイヴ(エヴァ)の前に神が創造したとされる最初の女・リリスの子どもたちのことか。

 エヴァンゲリオン リリスとは?
 https://goo.gl/ae2xQD



リリス
・・・
『創世記』1章27節のくだり「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女にかたどって創造された」(アダムの肋骨からイヴが誕生する前の節である)から、アダムにはイヴ以前に妻がいたという伝承が生まれた。この発想は、創世記2:21のイヴがアダムの肋骨もしくは脇腹から造られたという記述との矛盾を解消しようとするものであったと考えられる・・・。
https://goo.gl/vg5wYp

そう言えば、ダビデも、旧約聖書の「サムエル記」の中で、ペリシテ人の巨人ゴリアテと戦っていたよな。
そして、ゴリアテといえば・・・。


この動画の一番後ろの巨大な奴がゴリアテ(人形)だにゃ。


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多変数関数の極値の復習 [多変数関数の微分]

多変数関数の極値の復習

 

極大値、極小値の定義

関数f(x,y)に対して、あるδ>0があって

  th-001.png

が成り立つときf(x,y)は点(a,b)極大であるといい、f(a,b)極大値という。

また、

  th-002.png

が成り立つとき、f(x,y)は点(a,b)極小といいf(a,b)極小値という。

さらに、極大値と極小値をあわせて極値という。

 

例1 f(x,y)=x²+y²は、(0,0)で極小で、極小値は0。また、g(x,y)=−x²−y²は、(0,0)で極大、極大値は0

 

定理1 f(x,y)は点(a,b)で極値をとり、(a,b)で偏微分可能であるとき、

  th-003.png

が成り立つ。

 

例2 f(x,y)=x²+y²とすると

  th-005.png

である。極値をとる点の座標を(a,b)とすると、

  th-004.png

より(a,b)=(0,0)でなければならない。

f(x,y)=x²−y²とすると、

  th-007.png

もし、f(x,y)=x²−y²が点(a,b)で極値をとるとすれば、

  ht-008.png

より、(a,b)=(0,0)となるが、f(x,y)=x²−y²は極値を持たない。

偏微分可能な関数f(x,y)が点(a,b)で極値がとるために、

  th-003.png

は、十分な条件ではなく、必要な条件であることに注意。

 

停留点の定義

関数f(x,y)は偏微分可能であるとする。このとき、

  th-003.png

を満たす点(a,b)停留点という。

 

例3 点(0,0)は、関数f(x,y)=x²+y²g(x,y)=x²−y²の停留点である。

 

定理2 (極値をとるための十分条件)

f(x,y)は点(a,b)の近傍で級で、

  th-003.png

であるとする。

また、

  

とする。

(ⅰ) ならば、f(x,y)は点(a,b)で極小

(ⅱ) ならば、f(x,y)は点(a,b)で極大

(ⅲ) D<0ならば、f(x,y)は点(a,b)で極小でも極大でもない

(ⅳ) D=0のとき、これだけではf(x,y)が点(a,b)で極値をとるかどうかわからない

 

例4 f(x,y)=x²+y²とすると、点(0,0)f(x,y)の停留点である。

また、

  

だから、

  th-009.png

よって、定理2より、f(x,y)=x²+y²は、点(0,0)で極小。

g(x,y)=x²−y²とすると、点(0,0)g(x,y)の停留点。

また、

  

よって、

  

したがって、定理2より、g(x,y)=x²−y²は点(0,0)で極値をとらない。

 

ヘッセ行列とヘッシアン

f(x,y)級の関数とする。このとき、

  th-010.png

ヘッセ(Hesse)行列といい、ヘッセ行列の行列式

  

ヘッシアン(Hessianという。

 

ヘッシアンを用いると、定理2は次のように書き換えることができる。

 

定理2’ (極値をとるための十分条件)

f(x,y)は点(a,b)の近傍で級で、

  

であるとする。

f(x,y)のヘッシアンを

  

とすると、

(ⅰ) ならば、f(x,y)は点(a,b)で極小

(ⅱ) ならば、f(x,y)は点(a,b)で極大

(ⅲ) H(a,b)<0ならば、f(x,y)は点(a,b)で極小でも極大でもない

(ⅳ) H(a,b)=0のとき、これだけではf(x,y)が点(a,b)で極値をとるかどうかわからない

 

 

問1 f(x,y)=−x²+xy−y²+xの極値を求めよ。

【解】

  

よって、停留点は

  th-012.png

を解くことによって求められる。

この解は(x,y)=(2/3,1/3)なので、f(x,y)の停留点は(2/3,1/3)の1つ。

  

したがって、点(2/3,1/3)におけるヘッシアンは

  th-013.png

だから、f(x,y)は点(2/3,1/3)で極大で、極大値は

  

(解答終)

 

(別解)

  

よって、f(x,y)(2/3,1/3)で最大(極大)で、最大値(極大値)は1/3

(別解終)

 

 

問2 f(x,y)=x³+y³−3xyの極値を求めよ。

【解】

まず、f(x,y)=x³+y³−3xyの停留点を求める。

  th-015.png

①より、y=x²。これを②に代入すると、

  

したがって、f(x,y)の停留点は(0,0)、(1,1)である。

  

だから、

  

よって、f(x,y)は停留点(0,0)で極値をとらない。

  

したがって、だから、f(x,y)は停留点(0,0)で極小で、f(1,1)=−1が極小値である。

(解答終)

 

 

 


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《神》は補助線である by ブラゲロ・マムシ [ひとこと言わねば]

OKwaveの以下のアドレスに、《神》は補助線である、というブラゲロ・マムシの問題提起がなされているので、興味のあるヒトは見て欲しいにゃ。


今から5年前の質疑応答ですか。今の「OKwave」や「教えて goo」などとは違って、この当時の回答の内容のレベルが高いね。かなり本格的で熱い議論が展開されているようだ。
この話は、哲学・(カトリックの)神学の唯名論概念実在論(普遍論)が深く関係しているんだケロ。

 唯名論
 https://goo.gl/1QBFRX

 普遍論争
 https://goo.gl/hU9sHf

カトリックからすると、(普遍)教会ーーローマ教会のことーーの否定に繋がりかねない唯名論はこの世から根絶すべき超危険思想だったんだケロ。
上の唯名論という記事の中にも唯物論という言葉が出てくるでしょう。このことからも、カトリック(神学)と唯物論は同じ天を倶(とも)に戴(いただ)けない不倶戴天の敵であることがわかるに違いない。
このため、唯名論の代表的論者であるオッカムは教皇からの召喚を受けると、「危ないケロ」と身の危険を感じたらしく、当時ローマ教会と敵対関係にあったルードヴィヒ4世のところに逃げ込んだのであった。中世ヨーロッパは魔女狩りの時代。召喚に応じてバチカンに行けば、異端審問→火炙りにされかねないからね〜。

 ジョルダーノ・ブルーノ
 https://goo.gl/aVybzS

どうでもいいことだけれど、
日本に伝わった大乗仏教は概念の実在を否定する唯名論の系統に属する仏教。対して、タイやミャンマーなどのいわゆる小乗仏教ーーこの語は差別語だということで、上座部仏教と呼ぶーーは概念実在論の立場をとる。
洋の東西を問わず、唯名論と概念実在論との間で激しい論争が展開されたことは注目に値するのではないか。



この記事の作成、ブログへのアップの間に、ブラゲロ・マムシから次の記事をいただいたので、あわせて紹介します。




唯物論と唯心論とが 神論として 互いに同じ《信じる問題》だという議論をします。

1. レンガの家について《形式と内容》そしてまた《形相と質料》といった概念を捉えます。:

  形式( form ):家の四角なかたちや骨格
  内容( content ):家が出来ているその材料としてのレンガ


  形相( form; eidos ):家という実在から離れて概念と
        しての多面体・立方体
  質料( matter; hyle ):概念としてのレンガ


2. 形式と内容とは つねにそのモノについて一体です。

3. その実際のあり方から離れて形式や内容をおのおの単独に取り出すなら それぞれ形相と質料になるという用語の規定です。

4. そこで これら概念としての(あるいは 経験事物から一たん離れた抽象的な観念としての)形相と質料とをさらに抽象化して捉えます。

5. そうすると 質料のない(質料とは無縁の)形相が想定されこれを 特に第一形相と言ったりします。そして 形相のない質料は 第一質料です。

6. 第一形相は 精神(世界精神)ないしイデア( idea; eidos )であり得ます。
 第一質料は 物質( matter; hyle )と呼ばれます。

7. どちらも 仮想の概念ですから 精神(世界精神)と物質とは けっきょく同じものです。形相と質料とを超えた第一原因〔を想定した場合のその第一原因〕として 同じことです。

8. 言いかえると ここから 唯心論と唯物論とが派生しますが 両者は 定義からすると やはり同じことです。

9. 唯心論や唯物論のそれぞれみなもとは――どちらも同じ《みなもと》としての第一原因のことであるからには・そしてまたそれは要するに《絶対性》として想定するからには―― 同じことであり これが一般に《かみ》と呼ばれるものです。

10. 共産主義は 弁証法的唯物論です。
唯心論において 世界精神から経験世界が――神の摂理としてのごとく――派生して来るといった見方と同じように 唯物論では 物質からあたかもその自己運動としてのごとく 世界が発生して来ていると――そのジグザグのかたちを跡に残すような社会的な力学がはたらく歴史過程を捉えて――《弁証法的》と言うようです。



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