ブラゲロ・マムシがブログで・・・(7月10日) [ひとこと言わねば]
ブラゲロ・マムシがブログを更新していたので、「何が書いたるのだろう」と覗いてみたら・・・
の中で、文系さんが書いたと思しき次の記事が紹介されていた。
この記事の中で、可能無限では「0.999・・・=1か」とか話が出ていたにゃ。
ここは数学のブログなので、可能無限、実無限が云々という形而上学的な話、神学論争ではなく、数学の立場で書かせてもらうと、この記事を書いたヒトは、0.999・・・をどうやら数だと思っているようだね。
ですが、これは、
ここは数学のブログなので、可能無限、実無限が云々という形而上学的な話、神学論争ではなく、数学の立場で書かせてもらうと、この記事を書いたヒトは、0.999・・・をどうやら数だと思っているようだね。
ですが、これは、
という無限級数を表したものであって、実は、0.999・・・というのは数じゃないんですね。
そして、
0.999・・・=1
というのは、
そして、
0.999・・・=1
というのは、
を表しているにゃ。
つまり、
つまり、
と、nを増やせば増やすほどは1に近づいてゆくよね、1に限りなく近づいてゆくよね、という極限を表しているってこと。
このことを、みんなが大好きな(大嫌いな)ε−δ論法(いぷしろん・でるた論法)で表わせば、
任意の正数ε>0に対して、ある整数mが存在し、n≧mならば、
任意の正数ε>0に対して、ある整数mが存在し、n≧mならば、
が成立するとき、このことを
や
0.999・・・=1
と表す、とかになる。
0.999・・・=1
と表す、とかになる。
直観的にこのことは明らかであり、何ら不思議な話じゃなく、健全な常識の範囲に収まっている、と思う。
そして、
こうした数学のお約束、定義を無視して「、あ〜でもない」、「こ〜でもない」というのは止めたほうがいいと思うにゃ。
そして、
こうした数学のお約束、定義を無視して「、あ〜でもない」、「こ〜でもない」というのは止めたほうがいいと思うにゃ。
ところで、
オレ、ここまでで、何か常識に反する不思議なことを書いているかい?
オレ、ここまでで、何か常識に反する不思議なことを書いているかい?
なお、0.999・・・=1である初等的な証明は次の通り。
【初等的な証明(?)】
x=0.999・・・とし、両辺を10倍すると、
この両辺をx=0.999・・・で引くと、
(証明終)
ddt³さんのお話
まぁ~色々言いたいことはあるんだけれど、面倒だから言いません。
これらの議論の中で致命的に抜け落ちているのは、「数学は道具なのだ」「数学は思考の補助ツールなのだ」という視点です。
>可能無限では、「0.999…」は実質的な意味で有限小数でしかない。「0.999…」の「…」はどこまでも続く可能性があるだけである。実際に数値として取り出す時には、小数位を遡っていく作業をどこかの時点で中断し、有限の値を取り出すことができるだけなのである。…とする立場であるので、「0.999…」は実際には「0.999…9」(「…」をいくらでも好きなだけ続けてよいことを表すものとするが、その最後は有限の「9」で終わる)として捉える。
だからそうなんですって!。そんな事は数学者は百も承知です。少なくともコンピューターになじんだ現代の数学者達は。
で、数学者達のやった事は、可能無限を越えて「9で終わらない」と「仮定したら」、「0.999・・・=1」だという事を論理的に証明したんですよ。何故なら、その「仮想的論理的事実」があると、実数論の全体系を、実用に供せるものになるから。
目的はそれだけです。それが「数学は道具なのだ」「数学は思考の補助ツールなのだ」という視点の欠如です。
ネコ先生の方向はコーシーの実数論の方角ですが、ネコ先生の仰るように、0.999・・・=1は、物理的に確認できるものなのです。それは、任意に小さい単位を造ろうという有理数の発想と全く同じで、どちらも現実の物理操作として妥当なものです。
数学は有理数の操作を「どこまでも」外挿しました。それも物理的現実として妥当なものです。
何故なら実際に√2は、底辺1,高さ1の直角三角形の斜辺として実在し(実際に作図でき)、しかも開閉法によって、その無限小数はどこまでも追跡できます。その無限小数がネコ先生のおっしゃるように収束する無限級数であるというのは、これまたそれをExcslにでもプロットしてみればわかります。
要するに実数論も物理的背景を持つのです。どこが持たないの?。そして数学の任務は、その物理的背景に対する論理的な「理想化」です。
再び言います。ここで問題なのは、「数学は道具なのだ」「数学は思考の補助ツールなのだ」という、当たり前過ぎる視点です。
(今ではですが)数学が哲学な訳ないでしょう!。
それが駄目だというなら、まず検証できる無限をくださいね。
無理だと思いますけど。
これらの議論の中で致命的に抜け落ちているのは、「数学は道具なのだ」「数学は思考の補助ツールなのだ」という視点です。
>可能無限では、「0.999…」は実質的な意味で有限小数でしかない。「0.999…」の「…」はどこまでも続く可能性があるだけである。実際に数値として取り出す時には、小数位を遡っていく作業をどこかの時点で中断し、有限の値を取り出すことができるだけなのである。…とする立場であるので、「0.999…」は実際には「0.999…9」(「…」をいくらでも好きなだけ続けてよいことを表すものとするが、その最後は有限の「9」で終わる)として捉える。
だからそうなんですって!。そんな事は数学者は百も承知です。少なくともコンピューターになじんだ現代の数学者達は。
で、数学者達のやった事は、可能無限を越えて「9で終わらない」と「仮定したら」、「0.999・・・=1」だという事を論理的に証明したんですよ。何故なら、その「仮想的論理的事実」があると、実数論の全体系を、実用に供せるものになるから。
目的はそれだけです。それが「数学は道具なのだ」「数学は思考の補助ツールなのだ」という視点の欠如です。
ネコ先生の方向はコーシーの実数論の方角ですが、ネコ先生の仰るように、0.999・・・=1は、物理的に確認できるものなのです。それは、任意に小さい単位を造ろうという有理数の発想と全く同じで、どちらも現実の物理操作として妥当なものです。
数学は有理数の操作を「どこまでも」外挿しました。それも物理的現実として妥当なものです。
何故なら実際に√2は、底辺1,高さ1の直角三角形の斜辺として実在し(実際に作図でき)、しかも開閉法によって、その無限小数はどこまでも追跡できます。その無限小数がネコ先生のおっしゃるように収束する無限級数であるというのは、これまたそれをExcslにでもプロットしてみればわかります。
要するに実数論も物理的背景を持つのです。どこが持たないの?。そして数学の任務は、その物理的背景に対する論理的な「理想化」です。
再び言います。ここで問題なのは、「数学は道具なのだ」「数学は思考の補助ツールなのだ」という、当たり前過ぎる視点です。
(今ではですが)数学が哲学な訳ないでしょう!。
それが駄目だというなら、まず検証できる無限をくださいね。
無理だと思いますけど。
上の動画の問2の答は間違っているケロよ。
問2 sinθ=√3cosθのとき、sinθ、cosθの値を求めよ。
【解】
三角関数sinθとcosθには、一般に、次の関係が成立する。
問題の条件より、sinθ=√3cosθなので、これを代入すると、
よって、
したがって、
(解答終)
このことは、y=sinθ、y=√3cosθとし、この2つの曲線の交点を調べると、よくわかる。
0<θ<180°といった条件があるとき、
だにゃ。
「お前らに質問」(7月⑨日)の解答(?)例 [お前らに質問]
「お前らに質問」(7月⑨日)の解答(?)例
問題 とするとき、
で定める数列は単調減少数列で、
であることを示せ。
【解】
だからa>0。
まず、任意の正の整数に対して、
であることを示す。
(ⅰ) n=1のとき、
(ⅱ) n=kのとき、とすると、
仮定より、だから、
したがって、
任意の正の整数に対して、
単調性については
したがって、
となり、数列は下に有界な単調減少数列。よって、は極限値を有する。
よって、
(解答終)