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少し考えるネムネコ イエスを抱く聖母像 [ひとこと言わねば]

イエスを抱く聖母像というものがある。


この聖母像が、エジプトのホルス(エジプトの主神でファラオの象徴)を抱くイシス(エジプトの偉大な女神さまで、ギリシア神話のデメテル、バビロニアのイシュタル女神などに相当する)を元に作られたことは、キリスト教徒が何と言おうが、歴史的な事実。

「キリスト教のイエスを抱く聖母像には、エジプトのホルスを抱くイシス像という元ネタがあったのか」と思うのは浅薄で、キリスト教に頭が毒されていると言って過言ではない。
だって、ホルスの父親は、エジプトのオシリスという神さまなんだから。
(エジプトの)神々の王であるオシリスは、弟の神さまセトの陰謀によって殺されてしまう。そして、セトはオシリスが復活できないようにオシリスの体を切り刻んで、その肉片をナイル川に流す。
愛する夫、オシリスの死を知ったイシスは、散らばったオシリスの遺体を集め復活させる――男の神を復活させるのは女神。日本のオオクニヌシも兄弟に殺された後、女神の力で復活している。さらに言うならば、カナンの主神、新約聖書で悪霊の頭とされるベルゼブブことバアルも計略にかかり殺害され、妹(または姉)の女神アナトによって復活させられている。これは神話の類型の一つで、なぜ、マグダラのマリアがイエス復活の場に立ち会うことになったのか、その理由もわかる――。しかし、男根だけは見つけられなかったので、完全にオシリスを復活させることは出来ず、オシリスはこの世を去らなければならなかった。

ネムネコがここで何を言いたいかというと、イシスが抱いているホルスは、悪辣な計略にかかって殺された後、復活するオシリスの子どもであるということ。
で、キリスト教の福音書で、計略にかかり殺害され、その後、復活を遂げるのは誰だにゃ。イエスでしょっ。そして、オシリスのように復活したイエスもこの世を去ってしまう。
だ・か・ら、
 イエス⇔オシリス
 聖母⇔イシス
 聖母が抱く子⇔ホルス
という対応関係が成立する。
つ・ま・り、
イエスを抱く聖母像で描かれている聖母はイエスの奥さんであるマグダラのマリアであり、聖母が抱く子どもはイエスとマグダラのマリアの間で生まれた子どもってことになる。
キリスト教徒が何と言おうが、イエスを抱く聖母像はこう解釈するしかないケロ。

だから、お前らは騙されているってワケ(^^ゞ。

このことは、福音書を見てもわかるね。福音書におけるイエスの母・マリアには、イエスを生むという装置程度の役割しか与えられていないから。

マルコよる福音書 第3章

 3:31さて、イエスの母と兄弟たちとがきて、外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。 3:32ときに、群衆はイエスを囲んですわっていたが、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟、姉妹たちが、外であなたを尋ねておられます」と言った。 3:33すると、イエスは彼らに答えて言われた、「わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか」。 3:34そして、自分をとりかこんで、すわっている人々を見まわして、言われた、「ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 3:35神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。

https://is.gd/PVmb1B


ルカによる福音書 第2章

2:41さて、イエスの両親は、過越の祭には毎年エルサレムへ上っていた。 2:42イエスが十二歳になった時も、慣例に従って祭のために上京した。 2:43ところが、祭が終って帰るとき、少年イエスはエルサレムに居残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。 2:44そして道連れの中にいることと思いこんで、一日路を行ってしまい、それから、親族や知人の中を捜しはじめたが、 2:45見つからないので、捜しまわりながらエルサレムへ引返した。 2:46そして三日の後に、イエスが宮の中で教師たちのまん中にすわって、彼らの話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。 2:47聞く人々はみな、イエスの賢さやその答に驚嘆していた。 2:48両親はこれを見て驚き、そして母が彼に言った、「どうしてこんな事をしてくれたのです。ごらんなさい、おとう様もわたしも心配して、あなたを捜していたのです」。 2:49するとイエスは言われた、「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」。 2:50しかし、両親はその語られた言葉を悟ることができなかった 2:51それからイエスは両親と一緒にナザレに下って行き、彼らにお仕えになった。母はこれらの事をみな心に留めていた。

イエスは、「あなた方は私の生物学的な両親ではありますが、霊的な親ではありません」と、マリアをきっぱり否定しているんだにゃ。イエスの生みの親にすぎないこのマリアと、イエスのそばで仕え、イエスの死と復活の場に立ち会ったマグダラのマリアを同列に語ることなんて、そもそも、できない。キリスト教(学)における重要度が、マグダラのマリアとイエスの母親マリアとでは違う。月とスッポンくらいの開きがあるんだから。福音書において聖女の名に値する女性はマグダラのマリアしかいない!!。

また、4つの福音書の中で最も古いとされる「マルコによる福音書」に、イエスの母親であるマリアの名は出てこない。だって、イエスの生物学的な親が誰であるかなんて、重要じゃないんだから、それは当然のこと。それどころか、マルコによる福音書が伝える、どこの馬の骨ともわからないイエスこそ、民族、家柄などの違いを問わず万人の救済がなされる可能性、未来が提示されると言ってよいだろう。ここまで至れば、イエスが「神の子」であるかどうかすら、ハッキリ言って、瑣末な問題で、どうでもいい。

福音書で語られるイエスの生母マリアは、後世の福音書の書紀、作家が作った架空の人物である可能性があり、イエスの母親の名は「マリア」じゃない可能性さえあるね。
マタイやルカの福音書が伝えるイエスの家系なんて、どう考えても嘘っぱちで、信用なんてできるもんかい。
イエスは、マタイやルカによる福音書では古代イスラエルの王であるダビデ、ソロモン王のの末裔の家で生まれた、とされている。その由緒正しい家のヨセフがナザレで大工さんをやっているんですか。どう考えても、史実はどうであれ、旧約聖書の予言と一致させるために、福音書の書紀が家系をデッチ上げた、捏造したとしか考えられないにゃ。

まっ、オレは、福音書で描かれるイエスのモデルになった人物は実在したと思うけど、日本の聖徳太子と同じく、イエスという歴史上の人物の実在しないと思っているんだけどね。だって、イエスなる歴史上の人物の存在を裏付ける歴史的資料は、福音書などのキリスト教側の文献しかないもの。裏付ける同時代資料がないのだから、その実在を全面的に受け入れることはできない。のみならず、旧約聖書の物語がそうであるように、福音書がまったくの創作物であっても不思議じゃないと思っているにゃ。

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bragelone

こんばんは。

神観や神学は 論証できないドグマを許容しています。

哲学としての神論は 人知を超えたところの話は アブダクション(仮説法)で想定した上で なるたけ理論立てています。

という大前提を置いていますので 対話にはならないと受け取っています。

ただ もしかみ合わせようと思えば 次の一点について 思うところを述べます。

◇ イエスは、「あなた方は私の生物学的な両親ではありますが、霊的な親ではありません」と、マリアをきっぱり否定しているんだにゃ。

☆ ひとは誰でも 自然本性として 生物学的な両親から生まれており 自然本性+α のアルファとしては 普遍神の子である。そしえ このことは 同時に――想定上――成り立つと見ています。
(要するに ブッダター(仏性)があるという想定です)。


自然本性とは 身と心 知覚と知性 感性の原野と思考の緑野です。
アルファは 霊性です。非思考の庭です。つまり 信仰です。(無条件で無根拠にてナゾの何ものかをわが心に受け容れることです)。


そして イエスの場合は きわめて特殊です。ふつうに人間として《人なる両親の子であると同時に 神なる霊性をやどす神の子である》というのではなく 《人であると同時に神である》というドグマです。

神は 三位一体ですので イエスは 三つの位格のうちのどれかと言えば 父なる神の子である位格 つまり 子なる神だというかたちです。

神なる霊性が そのまま肉(人間)と成ったというトンデモ・ドグマです。
by bragelone (2019-06-17 22:26) 

bragelone

ダヴィンチ・コードは 見たように思うのですが 記憶がさだかではなくなっています。残念ながら。


ユダの福音書が発見されたことがありました。哲学として取り上げるところは 次です。

ユダが裏切ったのは イエス・キリストの知っているところであったというところ。人間イエスがというよりは 神の子キリストが ユダにそうさせたという話です。

さもありなん とでも応答するかたちです。
だから どうだこうだという話には 成り難いと思います。
by bragelone (2019-06-17 22:33) 

nemurineko

コメント、ありがとうございます。

聖霊が神のペルソナ(位階)の一つか。
私は、三位一体のこの解釈は間違っているんだと思います。

聖霊に対応するヘブライ語は「ルーアハ」、ギリシア語の「πνευμα(プネウマ)」で、日本語の「息」ですよね。
創世記第2章
2:7主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。https://is.gd/XyFzav
に出てくる、命の息の〈息〉がそう。

ですから、
これは、ヒトを活かす力、機能と見るべきもので、これを「神のペルソナ」と考えるキリスト教の三位一体説は間違っていると思っています。

ネットで調べたんですけれど、
私のこの考えは、奇しくも、「エホバの証人」の聖霊観と一致しているようですね。

聖霊とは何ですか
https://is.gd/SxPB3u

「エホバの証人」のこの記事にも書いてありますが、三位一体説の根拠とされるヨハネ第1の書の5.7、5.8は、(新約)聖書に本来なかった文言だと思います。

by nemurineko (2019-06-18 11:37) 

bragelone

こんにちは。弁証法のごとく互いに一段高いところに進み得ればよいのですが。・・・

ほとんどが 表現に即した応答・反論になりますが。

1.
聖霊が 神の位格のひとつを表わすという:
◇ 三位一体のこの解釈は間違っているんだと思います。
☆ 基本として 《解釈》ではないと思います。いきなり――ヒラメキをとおして――想定したものだと見ます。


2.
◇ ヘブライ語は「ルーアハ」、ギリシア語の「πνευμα(プネウマ)」で、日本語の「息」ですよね。
☆ 表現を問題にするのなら 《父なる神》だとか《子なる神》の父や子というのも おかしいです。


3.
聖霊は:
◇ ヒトを活かす力、機能と見るべきもの
☆ ですよ。光のタトへで 明るさや暖かさにあたります。

4.
エホバでは: 
▼ 聖霊は人格的存在ではない
▼ 聖霊を擬人化しているからと言って,聖霊が人格的存在であることの証拠になるわけではありません。
☆ という批判があります。

《擬人化》――つまりは 絶対性を絶対者と呼び それは相対存在に対して 被造物に対する創造主だと表現するのも 擬人化だと思いますが―― これは・これも ひとえに表現の問題です。物語化と言ってもよいと思います。

要するに わかりやすく言っているに過ぎません。


5.
◇ 三位一体説の根拠とされるヨハネ第1の書の5.7、5.8は、(新約)聖書に本来なかった文言だと思います。
☆ だとしたら その書簡は無しで聖書を捉えます。というに過ぎないはずです。


6.
聖霊をめぐるほんの断片記事ですが:
▲ (ヨハネ福音書 4:16-17 ) ~~~~~~~~~
わたしは父にお願いしよう。
父は、別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
この方は、真理の霊である。

▲ (ヨハネ第一の手紙 5:6 ) ~~~~~~~~
御霊は真理だからである。

▲ (ヨハネ福音書 14:6 ) ~~~~~~~~~~
 わたし(=イエス・キリスト)は 道であり 真理であり 生命である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
by bragelone (2019-06-18 16:32) 

nemurineko

こんばんは。

聖霊をアートマンと考えれば、聖霊だけで事足りるんじゃないですか。
父なる神、子なる神は不要なんじゃないですか。
「神がアダムに〈息〉を吹き入れた」という記述だけで十分じゃないんですかね。


by nemurineko (2019-06-18 18:29) 

bragelone

こんばんは。

父も子も 霊ですよ。

三位一体は ひとつの位格としての個がそれぞれほかの個とひとしく 三つの位格の全体ともひとしく 全体は それぞれの個とひとしい。三で割っても つねに元の一体なる全体です。



こまかいことを言います。
アートマンは ひとの側の受信装置であり 受け容れた霊をやどす装置――非思考の庭――であり または その霊そのものです。

ブラフマンの側も 霊なわけです。全体が 聖霊です。



聖書の神学では この聖霊なる普遍神が 三つのペルソナをそなえると言い出したわけです。

そして わたしの開発したタトへの説明は 父が光源 子が発耀 そして光の明・暖が 聖霊というものです。

明・暖が よく言われる愛です。
そして 父も子も同じく霊ですから 神は愛なりとなります。




◇ 聖霊だけで事足りるんじゃないですか。
☆ 聖霊も要らないという声が あり得ます。

すくってくれるかどうか分からないこんな神なんていなくていい いるもんかという声も 普遍神は 聞き届けるものと思われます。

聖霊も ゼロだというその《無い神》として 信仰が成り立つと考えられます。

《非思考の庭》の中身として 《無い神》派と《有る神》派とは 互いにまったく同等であり どちらも自由なのだと見られます。思考を超えているからには 信教・良心の自由が 無条件にみちびかれます。


表現の自由が おそらくこの非思考の庭における信仰のあり方にもとづき みちびかれるでしょうから 神・信仰・ないし形而上学は 社会一般の問題に直結していると考えます。




現代にいたるまで この神論では ことごとく哲学者は失敗して来ました。(科学者によるこの哲学への参入も 成果を結びませんでした)。

いま現在では ぶらじゅろんぬ神論が 世界の最先端を行っています。
by bragelone (2019-06-18 20:56) 

bragelone

おぎないです。

先の者が後になり あとの者が先になる――とは言われます。
by bragelone (2019-06-18 20:57) 

bragelone

地震のこと お見舞い申し上げます。
by bragelone (2019-06-18 23:14) 

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