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三位一体論について ブラゲロ・マムシ [ひとこと言わねば]

三位一体論

 

 

1. 三位一体論は オシヘではありません。それが ローマ教会やあるいはプロテスタントの教会における宗教としての教義になっていることと 神が三つの位格を持つと捉えたこの神観とは――思考としてはつながっていますが――別ものです。

 

2. つまり 或る人の信仰内容として表現された《特殊な絶対性》が 神観ですから それは そもそも独り善がりな神論(哲学・思想)です。

 

3. それがさらに宗教――組織宗教――にあって まもるべきオシヘとされ 神学として形成されるという事情のもとにあります。

 

4. 三位一体の説は もし信仰そのもの(つまり 非思考・非経験なる内容?)としてなら それを持つことは 個人の勝手です。ただし 誰からも相手にされません。話――対話――に成らないからです。

 

5. では 思想としてなら どうか? 非思考なる信仰から得られた〔と思われている〕経験的な思考をともなった内容をもって表現された場合は どう扱うか?

 

6. 要するに 現実世界との対応という観点から 妥当性がないなら ただちにゴミ箱行きです。

 

7. ところが 人間の心(精神)における三つのハタラキに対応すると考えられるのです。(これは アウグスティヌスが『三位一体論』で明らかにしました)。

 

8. しかもこの対応が 社会における《三権分立――分業において協業している。つまり全体として権力は一体――》にも当てはまると考えられたわけです。(わたしがやりました)。

 

9. 行政府は 立法者たちが取り決めた法律にもとづき共同自治をおこなうのですが その細部にわたっては 合法か違法かが問われ得ます。その問題は 司法府がさばきます。――こういった役割り分担やそのそれぞれの過程をともなう社会経営が 三つのハタラキの一体性を物語ります。

 

10. 人間たちのおこなう社会行為の一体性は すでに時間差をともなっています。想定している神の三つの位格については 時を隔てることなく 絶対的な一体性だという意味です。

 

11. すなわち 神にあっては すべてが《然り 然り。または 否 否》というかたちになります。司法・立法・行政の三権分立にあっては 案件ごとに《然りか または 否か》があらそわれます。そして 最終の――相対的なですが――結着にも 時間過程を要します。

 

12. といった世界のあり方・また人間の社会生活のあり方を考えさせるひとつのよすがに成っているのが 三位一体論だと考えられます。

 

13. 神論の持つ哲学的効用です。個人の神観は その内面にとどまります。組織宗教のオシヘとしての神学は そのみづからの立ち場たるタコツボから出ることが先決の問題です。普遍神のもとに身を(心を)おかねばなりません。(有効な神論へと展開することが出来るかも知れません)。

 

14. ちなみに きびしいことを言いますが もし哲学としての神論にうったえることを回避するようなアンチ神学ならば――あるいは 科学的・合理的な宗教史学等々であるのならば―― それがそもそも実質的に排他的な《一神教》と成っている思想だと言わねばならないと考えます。

 

15. 歴史事実と歴史の中に生きる人間の真実とは 別です。(ほんとうは同じひとつの《事実=真実》だとしても 人間の知力では 言葉による表現をともなっているからには その確認には限界があります)。したがって もし史実のみを明らかにするといった――M.ウェーバー流の価値自由性のみの――学問的探究でよしとするなら 決して悪意も故意もあるわけでないにもかかわらず 未必の意志行為としてあやまちになると思います。

 

16. なぜなら 名も無い人びと・その個人における人間の真実は けっきょく結果としてどうでもよいとして突っぱねた格好になると思われるからです。ウェーバーだって 最終には自己の価値判断をおこないます。

 

(執筆:ブラゲロ・マムシ)





三位一体
キリスト教の教理で,一つの神格にある三位格としての父と子と聖霊のまとまりをさす。
(中略)
この教理は何世紀にもわたり,多くの論争を引起しながら徐々に形づくられていった。当初,旧約聖書から受け継いだ一神教的要求と聖書の教えをギリシア=ローマ的宗教に解釈する必要性からロゴス (言葉) としてのキリストの神性は頂点に立つ神の下に位置するものと解釈されていた。また一方,父,子,聖霊は一つの神のうちにある三つの位格をそれぞれ啓示しているが,神そのものが分れて存在するものではないとする別の解釈もあった。前者には父,子,聖霊にはっきりとした区別を認め,それぞれが同等ではなく,したがって神の単一性も否定 (聖子従属説) し,後者には神の単一性を認めるが,それぞれの位格が異なる (様態説) という特徴がある。父,子,聖霊の違いと単一性の論争が,一つの実体において三つの位格が存在するという教理にまとめられ,一般に認められるようになったのは4世紀になってからである。
(略)
https://goo.gl/hv83ZT


「三位一体論」
400~419年頃にかけて書かれたアウグスチヌスの円熟期の労作。まず聖書の記録に従って三位一体すなわち3つのペルソナ tres personae,1つの実体 una substantiaの教義の解明に努め,次いでこの教義をめぐる教父たちの諸説に論及し,最後に三位一体の秘儀について考察している。ギリシア教父たちはおおむね父と子と聖霊の3つのヒュポスタシス (個性的実体) から出発して神の唯一性を考察し,3神論に陥る危険を思弁的に克服しようとする傾向にあったが,彼は逆に神の唯一性そのものから出発,3つのペルソナ (父,子,聖霊) を神の存在そのものにおける関係概念として説明することによって3神論への傾斜を避け,啓示と救いの働きにおける面を強調する (経綸的) 三位一体論の立場を正統とした。また彼は三位一体の秘儀は啓示と信仰のもとでも理性による十分な把握はむずかしいとし,神の三位一体性を人間の心的活動 (記憶と悟性と意志,あるいは精神と認識と愛) の三位一体性と類比的に説明している。
https://goo.gl/G2euVy

キリスト教の「三位一体説」やアウグスチヌスの「三位一体論」について質問しても、俺はわからないので答えられないにゃ。
アウグスティヌスの「三位一体論」や「告白」なんぞ読んだことがないので、俺に訊くだけ無駄だケロよ。



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bragelone

《未必の故意》って 現実的に問題となりますか? ならないですか?

アインシュタインは 核兵器の登場に責任を負いますか?

戦闘機の登場は ライト兄弟の所為ですか?

クローン人間について生物学者は 未然に責任を自覚しその実現がつつしまれていますね。

科学者って どういう考え方をしますか?
by bragelone (2018-11-14 10:36) 

nemurineko

こんにちは。

☆アインシュタインは 核兵器の登場に責任を負いますか?
◇「ナチス・ドイツが原爆開発を進めている」という情報を知り、アインシュタインが米政府に「アメリカもナチス・ドイツに対抗して原爆開発をすべき」と薦めたの事実ですね。
ただ、アインシュタインや実際に原爆開発の指揮にあたった原爆の父ことオッペンハイマーが原爆が実戦で使用されることを想定していたかと言えば、なんとも微妙なようです。
原爆は、毒ガスのようにそれを使用すれば同じ報復を受けるために、実際には使用できない兵器と考えていた可能性が高いように思いますね。
現代の核兵器と同じく、核兵器の使用と戦争抑止の抑止力としての核という奴です。
アメリカと同じく原爆を開発していた、ドイツ、日本においても、脅しとしての核、報復兵器としての核と意味合いが強く、実戦における核兵器の使用は考えていなかったように思います。
このことは、広島・長崎への原爆投下後のオッペンハイマーやアインシュタインのとった行動をみればわかるのではないでしょうか。
https://youtu.be/Wb0aSCVkdlY
https://youtu.be/cufJyAwpADE

☆クローン人間について生物学者は 未然に責任を自覚しその実現がつつしまれていますね。
◇「科学者と科学研究は倫理と無縁ではない、無縁でいられない」という思想、科学研究にあたる科学者の倫理はオッペンハイマーの功績だと思います。

☆科学者って どういう考え方をしますか?
◇たぶん、圧倒的多数の科学者は、「自分の研究が世のため人のため、まして、害悪になる」なんて考えて研究をしていませんよ。
どうしたら、この研究がうまくいくか、実験うまくいくか。これしか考えていないと思います。
だって、圧倒的多数の研究は、世のため、人のため、まして、害悪、それどころか、その学問のためになることはないですから(^^ゞ

by nemurineko (2018-11-14 15:10) 

ddtddtddt

 科学者が公然と価値自由でいられたのは(少なくとも表面上は)、アインシュタインあたりが最後だろうと思います。

 有名なE=mc^2の式ですが、アインシュタインは最初、質量を現実にエネルギー転換できるなどとは全く考えていませんでした。
 それを実行したのは、20世紀初頭に輩出した若手達です。彼らもまた、質量を現実にエネルギー転換できる方法があるぞと気づき、ワクワクしてやったというところが、やはり最初の動機であろうと思います。その実験が成功したと知ったアインシュタインは大いに動揺し慌て、最後には大統領へ親書を送ります。

 アインシュタインの特殊相対性理論は、電気・磁気現象の理論である電磁気学の理論的整備というのが動機です。電磁気学は電気事業を起こしましたが、それが「金になる!」と見抜き事業化に成功する才覚を持っていたケルビン卿(J・J・トムソン)は、物理・工学屋としての矜持と同時に、金儲けの動機があったのは明らかです。

 ライト兄弟も工学屋・技術屋としての矜持を持っていましたが、もし当時の陸軍が彼らへ戦闘機計画を持ちかけたら、絶対に頑張ったはずです。

 オッペンハイマーも最初は野心のために、原爆開発を引き受けます。態度が変わったのは、家畜まで用意した破壊効果を確認する実証実験を見た後です。

 クローン人間については倫理問題があまりに明らかなので、学会にそういう規制がありますが、家畜クローンについては公認されてます。これが18,19世紀だったらどうでしょう?。
 さらにクローン人間はそのうち現れると、自分は思っています(たとえ違法であっても)。一つは金のため。もう一つは、人間ってそんなものと思うから。「まだ見ぬ嬰児より目前の生活」という堕胎を考えれば。

 もはや科学者は価値自由ではいられないけど、責任倫理をどこまで持てるかは不確かと思います。
by ddtddtddt (2018-11-14 16:55) 

bragelone

科学(とくに自然科学)は 善悪無記ということですね。

現場の実際は そういう事実としてあるでしょうね。

そのあと どうなるか? オッペンハイマーにしても この《そのあと》が問題となった。わけですかね。



いやぁ じっさいよく分かりません。

というのは たいていの実験などは ひとりが禁欲しても ほかの科学者がやるでしょうから。世界を知るといういとなみは 営々とつづくでしょうね。


三位一体のごとく どこかの時点では 辻褄を合わせるのか。それとも そんな結着の必要などはないのか?



つまり 単なるアンチだと・つまり 核廃絶といった反措定のみの運動だと 予測がつかないままになる・・・かも。



まとまりがつかなくなりました。一たん止まります。
by bragelone (2018-11-14 16:59) 

nemurineko

☆科学(とくに自然科学)は 善悪無記ということですね。
◇ですよね。
(善悪がない)科学技術を何に使うかによって、結果として善悪が定まる。

たとえば、
鉛筆やボールペンは筆記用具として製造されますが、鋭く尖った鉛筆の先で人を刺して傷つけたり、殺害したりすれば、鉛筆は凶器や武器に変わってしまいますからね〜。
結局は、それを何の目的で使うか、それを決定する人に関わっている。

それはそれとして、
アメリカなどの軍はお金を持っていますからね〜。
そして、大学の多くの研究者は貧乏で研究費の捻出に困っています。
貧乏だから、内心、悪いことだとは思っていても、軍が出してくれる破格の研究費に目が眩んでしまうんです。
しかも、こうした研究の多くは、軍事応用のための基礎研究なので、人を傷つける兵器には直接結びつきませんからね〜。
これで良心の呵責が少なくなる。
そして、研究を進めてゆくうちに、麻痺し、その関与の度合い、軍への依存が深くなってゆく。

軍事関連の研究、技術開発は、自然科学・工学の研究者にとっては麻薬のようなもので、一度、これに手を出してしまうと、自分ではやめられないものなんですよ。
誰も、明日の研究費にも事欠く、貧乏研究生活には戻りたくないですから。

(教えて!日本の「科学力」:8)軍事研究費、「学問の自由」に影響は?

 兵庫県姫路市で9月19日に開かれた日本天文学会の特別セッションであるアンケート結果が公表された。
 防衛省が大学などに研究費を支給する「安全保障技術研究推進制度」の是非を問うもので、天文分野の若手研究者らが今夏開いた「夏の学校」で実施され、修士課程の学生を中心に138人が答えた。
 賛成56・5%、反対29・0%、保留14・5%。
 学会長の柴田一成・京都大教授は「正直、ちょっとショックだった」と打ち明ける。「『軍事』と聞けば、拒否反応が起きると思っていましたから」
 ただし、「賛成」と答えた人の中には「国の防衛に協力すべきだ」といった積極論は少なく、研究資金を得るには賛成せざるをえないといった消極的な理由が多かったという。……

https://goo.gl/Syrvfd


by nemurineko (2018-11-14 18:05) 

ddtddtddt

>それはそれとして、アメリカなどの軍はお金を持っていますからね〜。そして、大学の多くの研究者は貧乏で研究費の捻出に困っています。

 あのガリレオ・ガリレイさえ、パトロンのために軍事技術研究をいっぱいしたそうです。その多くは、全く実用化されませんでしたが。時代を先取りしすぎていて、技術が追い付いていなかったから。

 ところでクローン人間については、拒絶反応のない臓器移植の資源として十分に期待されてるところがあります。その辺りを描いた映画「アイランド」ってのがあるのですが、「アイランド」の資源達は意識を持ってました。

 そこで「脳のないクローン人間」というか、「脳幹しか持たないクローン人間」を造ればOKなんだよね?、という話もあります。
 「脳幹しか持たないクローン人間」とは要するに、「植物状態の人間」の事です。「植物状態の人間」を目的とし、「それを最初から造ろう」という訳です。技術はそういう方向にも進み得ます。

 この時、例えばローマ法王庁はどういう見解を出すんでしょう?。「駄目だ」と言えば「人命軽視」だと言われそうだし、「OK」と言えば檀家衆のからの総攻撃を受けそうだし。堕胎問題の比ではないですよ。

 思うに、科学技術が日常生活を死活を決めるかも知れないような時代になったのは、20世紀後半からです。我々は、新たな事態に直面してる気もします。

 あえて言いますけど、ネコ先生もプロゲラさんも、自分と同じくらいの歳ですよね?(^^;)。我々の思春期頃って、日々、日常生活の中で技術革新を目の当りにしてきた世代じゃないですか?。

 そういう基礎的な技術革新の総合力が、いつのまにか、こういうインターネットへとつながったと思えます(^^;)。
by ddtddtddt (2018-11-14 19:00) 

bragelone

ブロゲラ・ブラゲロこと ぶらじゅろーぬクンは 昭和21年9月に産声を上げました。マムシというのは そういう意味です。

さて 三位一体をうんぬんする前に やっぱり《神》を想定しておかねばならないと思います。あらためてです。


§§ 《非在》なる神について


§ 1 不在と非在

たとえば ○○さんご在宅でしょうか? と尋ねて いえ あいにく○○は不在です。といった会話があります。

けれどもこのとき《不在》だと言っても ○○さんは どこか他のところにいるはずです。

すなわち 《存在(在宅)と不在(留守)》とは互いにこの同じ時空間――《宇宙》としましょうか――にいる或る人の存在についてふたつのあり方を表わしています。また それだけのことです。

ところが もし《非在》と言ったらそれは何を表わすか? 《存在に非ず》とは どういうことか?



§ 2 不在でありうる存在は 《感じる・考える》の対象となる

在宅と留守とのあり方を交互に変える○○さんなる存在については 見ることも触れることも声を聞くことも出来ます。つまり 《感じる》ことが出来て さらにその知覚を 概念で認識して《デカイ》とか《だが声は小さい》とか言葉で表現し得ます。

さらにあるいは その小さな声で言ったことが妙に気に成ってその内容について《考える》ことをもおこなう。

では 《非在》とは 何のことか?
感じることが出来るのか? 考えることができるものなのか?


 
§ 3 《非在》とは 想定である

(あ) 《非在》とは 存在か不在かであるこの世界(宇宙)をこえたところに想定したものです。

《永遠》なんて それを生きた人間はいないのに わざわざそれを想定してその言葉を持つようになっています。

(い) 《非在》とは 世界の合理的な理解としての経験法則――たとえば これがあればあれが生じるといった因果関係――から自由な場(ないしチカラ)を想定して名づけたものです。

合理的な経験法則としては ○○さんは 在宅であれば会社には不在であるということを示します。家と会社とに同時に存在することは出来ない。という世界です。

あるいは ○○さんであって 同時に別の人たる△△さんであることは出来ない。あり得ない。という世界です。

(う) 《非在》という想定は このような居たり居なかったりする経験存在を超えた場としてなのである。(世界の外ではなく 超えた場である)。



§ 4 《非在》という想定が 神のことである

(え) 《存在が有るでもなく無いでもない》。《この原因でその結果が生まれるといった因果律に支配されない》とは どういうことか?

(お) ということは 《どこにも有るのではなく どこにも無いのでもない》とすれば 当然のごとく――このささやかな人間の知性で考えるに―― 《因果律に支配されない出来事が起きる》ことを 想定として表わそうとしている。

(か) ここにもあれば 同時にあそこにもある。

(き) という存在(つまり非存在という別個の場 つまりお化け)のことを 人間は想定することができる。想定して来た。《神》として。



§ 5 神は 人間やモノについて言う《存在》とは 別個の(別次元の)場として想定されている。すなわち 《考えるや感じる》の対象ではない。

(く) 非在なる神は したがって あまねくそのチカラがはたらくという意味で《遍在》だと 人間の理性では推し測られた。あるいはしまいには 全知全能なる存在ではないかと。

(け) この神は すでに存在の有るか無いかで推し測る宇宙の次元を超えているからには 《感じる》ことも《考える》ことも出来ません。

(こ) 出来たと思っても それが合っているのかどうかが 人間には分からない。考えて分かったというのは この経験世界における思考や想像によって得た補助線――神を理解するための補助線のこと――を言っている。神本体ではあり得ない。

(さ) それゆえに・あるいはそれでも 分かったと宣言する人が出て来ることがある。そのとき ほかの人においても納得することが出来るかどうかは分からない。(だから 分からないながら ある程度の人数の《賛同者やさらには崇拝者》が出る余地がある)。



§ 6 神を受け容れるかどうか。受け容れるというのは――無条件で無根拠にてわが心に受け容れるからには―― 《考える》でもなく《感じる》でもなく 《信じる》と言う。

(し) この神は その想定として受け容れるかどうかは ひとの自由である。ひとの選択にまかせられている。(良心・信教の自由)。

(す) ただし《受け容れない》と選択した場合も 神という想定じたいは 消えることはない。《感じる・考える》を超えている非在を どうして人間が消すことができよう。

(せ) だから 神とわれとの関係は 受け容れたと受け容れないとのふたつの場合に具体化したとき それらは《有神論と無神論》とに分かれたことを意味する。

(そ) 一般に有神論は 神を信じると言い 無神論は 神を信じないと言う。すなわち後者は 《無い神を信じる》と言うのにひとしい。

(た) 《信じる》というのは 《感じる・考える》を超えた《非在》とわれとの関係をあらわす言葉である。



§ 7 信仰とシュウキョウ

(ち) 《信じる――または わが心なる〈非思考の庭〉としての動態――》は 信仰としてありうるが この神をオシヘとして《考えるや感じる》の対象にすることは――それが シュウキョウである―― いただけない。

(つ) シュウキョウはその起こりからして 思考に非ざるものを思考した(忖度した)オシヘを 信じるという自己矛盾である。

(て) オシヘは けっきょく人間の言葉で表現した思想である。神ではない。考えるものなのだから 信じるものではあり得ない。

(と) シュウキョウを信じると言うのは 自己欺瞞である。


by bragelone (2018-11-14 21:33) 

bragelone

遅ればせながら。

【Q:神のデザイン】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10843960.html

1. 《場》が生まれる。(あるいは 元からある)。時空間として動いている。

2. 場が揺らぎ コトとしてある。

3. コトなる場が揺らぎ過ぎて 別の部分的な場が生じた。モノとして分かれる。

4. コトを起こしている場が 元の場とそこから分かれたモノ(単体)とから成るようになった。地と図とである。

5. 場も言ってみれば存在であるが のちに人間は そこから分かれているモノのほうに《有るか無いか》の存在を見ようとする。

6. 人間は 場についても その知性を当てはめてそのモノとコトから成る世界を捉える。

7. 場がゆらぐ。場が場する。世界が世界する。というとき 初めの場や世界を 《記憶》と呼ぶ。

8. 記憶なる精神が精神するとき そこに《知解》が生じていると見る。納められた情報が 倉庫から出て顕在化する。

9. 記憶と知解との突き合わせをつうじて 《意志》が発出する。知解は 自分が部分観でないかとおそれて記憶に相談する。その結果である。

10. モノがモノするとき 熱を帯びユラギのほかにさらにエネルギーを生じさせる。このエネルギーを意志が帯びる。

11. 光のタトヘとして言って 《光源》が 記憶である。記憶が記憶するとき 《発耀》としての知解が生まれる。記憶と知解とのすり合わせをつうじて 《明るさや暖かさ》としての意志が現われ出る。

11-1. 意志行為には プラスとマイナスとがある。同じ方向に凹凸それぞれの向きがある。そのどちらかをえらぶ自由度が生まれつきそなわっている。明暖と暗冷との両面が表わされ出て来る。好悪や愛憎というふたつの向き。

12. 記憶は 社会形態としては 司法に当たる。知解は 立法である。意志が 行政にあたる。

13. この三つの事項の一体性が 《神のデザイン》である。三位一体なる神という想定になる神論から解釈したものである。

14. 神としての三位一体は 時間を超えているので 《父なる神(光源)》と《子なる神(発耀)》とその両者から発する《聖霊なる神(明暖)》とは 絶対の同一である。

14-1. それぞれの個はほかの個とひとしく そして全体とも それぞれひとしい。三で割っても 商はやはり元の全体である。時間的な変化はない。

15. 人間の精神における《記憶 ‐ 知解 ‐ 意志》なる一体は・そして国家としての《司法 ‐ 立法 ‐ 行政》の分立=協働も それぞれ時間差をともなった一体性である。

15-1. 行政のおこなったことが 司法によって《あとから》その合法性いかんがあらそわれる。わが意志行為も あとで記憶に照らして間違っていたと分かることがある。

16. 人の一生のあいだには 意志ないし行政の行為が記憶ないし司法の判断とついぞ合致しないままに終わるということさえ あり得る。悪貨が良貨を駆逐し表現のあやとして言って 巨悪はほろびず生き延び得る。

17. 《因果応報説》が 現実につねに当てはまるとは言えない。それは 時間的な意志行為には 意志内容(目的)と結果とのあいだにズレがあり 一致しても時間差があり かなしいかな神の普遍的・不可変的な一体性は その現象に対してのぞみがたい。相対性が絶対に対して勝つ(!?)。

17-1. 相対世界における或る人の意志行為に 絶対なる神が勝ったとすれば それはその意志行為のあやまちが明らかにされたことを意味するが そのような認識と判断は あくまで相対世界における人間の《意志による知解》としての判定である。

17-2. 人間の判定を 神にかこつけて表現したに過ぎない。神が勝ったのかどうかは 分からない。(分かるかどうかが分からない)。そういうかたちで 神が 人間の相対性の世界の中に絶対性の調味料をまぶしているかも知れない。

18. 《 plan → do → see 》のサイクルは 《知解→意志→記憶(秩序作用)》または《立法→行政→司法》のそれとして捉えられる。

19. これらのことをいにしへの聖書記者は 次のようにタトへにおいて記した。
▲ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

20. 以上が 神のデザインについてのひとつの考えです。添削をどうぞ。
by bragelone (2018-11-25 16:35) 

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