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[落ちる」ってどういうこと? [ddt³さんの部屋]

[落ちる」ってどういうこと?

 

 プロゲラさんへ。とりあえず質問には答えません。以下を読んでみて納得し難かったら、また質問を下さい(^^;)

 

 円軌道を描く人工衛星は(中身も含めて)、向心力(重力)と遠心力が釣り合うので落下しない。・・・間違いとは言いませんが、危険思想です!。それは遠心力を実在する力とみなす事になるからです。遠心力を実在する力とみなしちゃ駄目なのか?。駄目です!。

 現代物理は1719世紀のニュートン力学の時代よりも、ある意味もっと素朴な発想をします。

 

  ・実在する力には、力の発生源があらねばならない。

 

 向心力である重力には、地球という発生源があるので実在の力だ。それが観測結果だ!という訳です。では遠心力に発生源はあるのか?。遠心力は物体が回転する時にしか発生しない。物体が回転する/しないは、人間が恣意的に決める事さえできる。また遠心力は、宇宙のどんな場所においても、原理的には発生されるのが可能だと考えられる。にも関わらずそれは、あたかも逆向きの重力のように作用する。

 宇宙空間には、回転した時だけ反重力作用を及ぼすような「隠れた質量」が充満してるとでも言うのか?。そんなの嘘だ!(^^)

 

 この状況を整理するには、地球に静止した座標系で運動を記述するのが一番です。つまり実在する力である(あろう)重力のみを用いて、遠心力を導ければ良い訳です。そうするとこの世には、とりあえず重力による向心力しかない事になります。

 でもでもぉ~、ガンダムの宇宙世紀の細長いシリンダーを回転させた宇宙コロニーの中で、アムロは遠心力による重力を感じていたぞ。それはどうなる!。

 

  ・だから重力しかない状況から、座標変換で遠心力を導いてさしあげますって(^^;)

 

 要するに地球に静止した座標系から、人工衛星に対して相対静止した座標系に移り、運動を記述し直すんです。これの物理的意味は、人工衛星に乗ってる自分と人工衛星との相対運動を表します。人工衛星に対して相対静止した座標系の座標値は、地球に静止した座標系の値で表す事が可能です。

 

 図-1は、人工衛星が軌道半径Rを一定角速度ωで地球周回してるという絵です。地球に静止した座標系(XY)から人工衛星に対して相対静止した座標系(xy)への変換は、次式になります。

 

  

 

 変換は2段に分けて考えると便利です。(1)の右辺の行列の後の()内は、図-1(XY)から(x'y')への変換を表します。これは座標系の原点の+R(cosωtsinωt)の平行移動です。(1)Rの符号が-なのは、図-1で軌道半径Rに沿って、座標系(XY)から(x'y')まで移動する過程を想像すれば明らかです。

 R(cosωtsinωt)だけ座標原点がずれれば、外の景色は(x'y')までに逆向きに-R(cosωtsinωt)だけ動きますよね?(^^)

 

ochi-ddt^3-fig-001.png

 

 次に(x'y')系を(xy)系に重ねるために、左へωtだけ回転させます。回転角がωtなのは、それが半径Rの回転角と同じなのは、図-1から明らかですよね?。左へωt回転さす操作が、(1)右辺の行列です。ただしこれも-ωtの回転を表します。自分が左へ回転したら、外の景色は右回りに回転しますよね?(^^)

 (1)(XY)=の式に直します。申し遅れましたが、tは時間です。

  

 こうするのは、これを地球に静止した座標系(XY)で記述された運動の運動方程式(3)に使いたいからです。

    

 (3)においてFは人工衛星に作用する重力,mはその質量です。(2)(3)へ代入し、(xy)で運動方程式を記述し直すためには、(2)の時間に関する2階微分を計算する事になります。微分はやりゃ~必ずできます。

だから地道に頑張ります(^^;)





 (4)(3)に代入する前に、少し状況を整理します。(xy)系で記述される運動の物理的意味は、人工衛星に乗ってる自分と人工衛星との相対運動を表すのでしたが、自分と人工衛星は全く同一の運動をしてても良いので、自分が人工衛星そのものだとしてもOKですよね?。そうすると(4)右辺1項目の(xy)0です(自分が原点だから)。また2項目の(xy)の時間の1階微分は、自分が人工衛星なので自分に対する自分の相対速度です。よってこれも0

 相対速度が0なら、相対加速度を含む3項目も0なんですが、次のステップでの式整理を容易にするために、0である事をおぼえておいて残しておきます。よって(4)(3)への代入結果は、

 

  

になります。ところで重力Fは図-1を参照しつつ詳しく書くと、

  

なのでさらに、

  

を得ます。(7)右辺1項目の加速度項を見ると、前にかかっている行列を除いて(3)右辺と同じ形をしています。これの物理的に意味するところは、まだ変換は完了していないという事です。

 

 そもそもの目的は(xy)系で(自分座標系で)運動を記述し直す事でした。そのために(XY)系での運動方程式(3)に手を付けたのでした。目標は(xy)系での運動方程式です。運動方程式は直接、[力=質量×加速度]の形をしていなければなりません。従って(7)右辺1項目の加速度ベクトルを裸にする必要があります。そのために前にかかっている行列の逆行列をかけます。するとなんと、

  

の形になります。運動方程式として正規の形にすれば、

  

です。(8)右辺は、自分座標系での[質量×加速度]の形をしているので、左辺は人工衛星としての自分が「現実に」感じる力です。何故なら重力しかない現実の状況から出発して、座標変換のみに基づいて自分座標での[質量×加速度]を数学的に導いたものだからです。

 

 ここで相対加速度は0なのを思い出すと、(8)y方向の成分は全て0になります。そこで、

  

と書くのが可能になります。(9)の力の方向は、図-1を参照すれば軌道の法線方向、あえて言えば遠心力に平行な方向です。符号が+ならまさに遠心力の方向です。人工衛星の軌道速度をvとすれば、v/Rωでした。これより(9)は、

  

となり、遠心力と重力が釣り合うという関係が得られ、無重量状態になります。

 でもですね、さっき(8)左辺は人工衛星が「現実に感じる力」だと書きましたが、それは(9)(10)から0になるのがわかります。だとしたら結局のところ遠心力mv2/Rは感じられないのです。こんなものを、観測できないものを考える意味なんてあるんでしょうか?。

それがあるんです。

何故なら遠心力は、実在する力に変換して測定できるからです





 図-2のように角速度ω(軌道速度v)で回転する半径Rの円筒殻の内部に自分は立っているとします。自分は円筒殻といっしょに回転します。まっ、アムロ君のいた宇宙コロニーですな(^^)

 円筒殻といっしょに回転してるので、自分は常に円筒殻の軌道速度vで円筒殻の接線方向に飛び出そうという速度を持ちます。円筒殻が本当に何もしてくれければ、本当に宇宙コロニーから接線方向に飛び出し、真空の宇宙空間で内圧爆死するはずです。しかし宇宙コロニーのシェル(殻)は、自分とコロニーの相対位置が変化しないように、ちゃんと押してくれます。その力はmv2/Rの「向心力」です。何故なら、自分は円筒殻といっしょに回転してるからです。コロニーに静止した座標系で運動方程式を立てると、向心力はmv2/Rでなければならない事がわかります(図-2の赤矢印)。

 この「向心力」は「接触力」と言われる実在の力です。その発生源は、シェルが自分を押す事によって発生するシェルの変形に起因する弾性力です。

 しかし自分はこの力を、「遠心力」と誤解して体感します。だってあたかも地面であるシェル方向に自分を引っ張る(もしくは押す)力と感じるからです(図-2の赤点線矢印)。これが疑似人工重力の正体です。

 

 でも上記の理屈は、自分と円筒殻が接触している限りにおいてではないでしょうか?。なので検証として、図-2の最初の位置で垂直跳びのようにジャンプしたとします。

 話を単純化するために、一瞬である高さまで跳んだとします。足裏が床から離れた瞬間に何の力も受けなくなるので、その時に手にした水平方向(左向き)の移動速度だけがが残ります。そして接線方向へ飛び出そうとする軌道速度vは、そのまま維持されます。この瞬間に自分のジャンプは、コロニーに静止した座標系では等速直線運動になります。

 

 

ところがその運動を図-3に示した自分座標系で記述し、地面(シェル)からの離れを追うと、何故かちゃんと重力加速度mv2/R/g×1Gの自由落下になっています。そのとき不可欠なのが、座標変換によって現れる、式(10)の「遠心力mv2/R」です。でもやはりmv2/Rは観測できません。だって自由落下に見えるものは、重力も何もない状況下での本当の等速直線運動なんですから。作用する力は全くありません。しかし運動方程式の辻褄は常に合うんですよ。

これは何故でしょう?。

 

 もう一度問います。遠心力は実在の力でしょうか?。実在の力ではないはずです。

 何故ならそれは、座標変換に由来する数学的な付加項として導けるものだからです。本当に実在するのは、地球に静止する座標系で考慮された重力だけのはずです。しかし遠心力を考慮すると、どんな自分座標系においても、運動方程式の辻褄は常に合います。

 さっきの垂直跳びは疑似重力下での自由落下です。それを地球上での垂直跳びの自由落下と同じになるなどとどうして言えますか?。じっさいその運動を、正しい(本当の?)運動方程式を与えると考えられるコロニー座標系で記述してみると、自由落下という加速度運動どころか、たんなる等速直線運動でした。でも自分座標系では予想通り(?(^^;))、自由落下になります。そんな事は普通ないはずです。

 

 これの物理的に意味するところは、運動方程式という運動法則は「いつでもどこでもどんな条件下でも常に正しい」という経験事実で、後に論理的に確認されます。これを物理法則の不変性と言います。

 物理法則が不変だからこそ、人工衛星の自分座標で運動を記述しても、宇宙コロニーの垂直跳びを自分座標で記述しても、「遠心力を考慮すれば」いつも妥当な結果が出てきます。そういう意味で「遠心力」は実在はしないが、力学にとって必要不可欠なものです。こういう座標変換によって現れる付加項を一般に、「慣性力」と呼び、「数学的な見かけの力」とも呼ばれます。そして「見かけの力」の具体的効果は測定可能です。例えば北半球での台風の左巻きは、ここでは省略したコリオリの力と言われる見かけの力の効果です。

 これらを摩訶不思議なものだとは思わないで下さい。妥当になるのには妥当になるだけの数学的理由があります。それが論理的確認です。

 

 でも以上の立論には、マッハ先生の反論ミサイルが飛んでくるんですよね。それは次回という事で(^^;)

 

 


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ddtddtddt

 ddt^3です。エリアルのOPは面白いっすよ(^^)。

[マッハ先生とランダウ先生]

 前回のストーリーはこうでした。物理法則は不変なので、「みかけの力を考慮すれば」常に正しい結果を、運動方程式は出してくれる。そして「みかけの力」は正しい結果になるように、現実の作用としても現れる。ただし「みかけの力」は座標変換という幾何学的条件から現れたもので、実在する力ではない事だけはおぼえておこう(^^)。

 一見理想的なストーリーに見えます。しかしこのストーリーは理想的過ぎて問題を含んでいるのです。上記ストーリーが正しいなら、運動方程式は力の一つの測定法を与える事になります。

  F=ma      (1)

 ここにFは質量mに作用する力、aはmの加速度です。運動方程式(1)によれば、mに作用する力を知るにはその加速度aを知ればよいことになります。(1)はいつでもどこでもどんな条件下でも正しいからです。でもFは慣性力込みでした。もう一回言いますが、みかけの力は現実の効果として現れます。みかけの力は実在はしないかも知れないが、本当に現実の力として存在はするんですよ。しかもmにとっては本当の実在する力と同じです。どうやって見分けるんですか?。実在する/しないを。(1)は常に正しいが故に、見分けなんかつきません。
 (1)は常に正しいんだから、別に良いじゃないの?。何がまずいの?。・・・それは物理が力学のみでやって行けた時代の話です。扱う現象がすべて、「見えるレベル」のものであった時代の話です(^^;)。

 現在の物理は力学だけではやって行けません。力学が使う「力」を記述する「力の理論」がペアになって現れます。ニュートン力学の時代には(19世紀まで)、「力の理論」といったら「万有引力の法則(重力)」しかなかったんですよ。だからとりたてて「力の理論」を問題にする事はありませんでした。今からみればニュートン力学は、純粋な力学と力の理論が未分化な状態だったと言えます。
 今では少なくとも4つの力があります。重力,電磁力(電波の力(^^)),強い力(核力など)、弱い力(良くわかんない(^^;))。それぞれ発生源も発生機構も作用機構も違い、統一しようとしてノーベル賞クラスの研究が出る始末。後ろの三つまでは統一されたそうですが。そこへ実在しない見かけの力まで、その発生源・発生機構・作用機構を妄想・捏造する必要があったら、もう収拾なんかつきません。だから力が実在する/しないは、隠れた大問題なんです。もっともインターネットで調べたら、怪しげな力の理論がワタワタ出てきそうではありますが(^^;)。
 もう一つは、現在の物理はもう「目に見えない現象しか」扱わないからです。そこに地球があるから重力は実在する!、なんて明快な事は言えない時代なのです。その意味でも力が実在する/しないは重要です。

 マッハ先生に登場願います。マッハは非常に現実を重視した人でした。近代実証主義の開祖です。マッハ先生なら「現実を見ろ。地球があるから重力は実在する。遠心力は実在しない!」と力強く喝破してくれそうなんですが、歴史的事実は違いました。

 物理は観測がすべてだ(そうだ、そのと~りだ(^^))。よって(1)が常に正しく重力と遠心力の違いを観測できないなら、どちらも実在の力だ!(エッ?)。そもそも実在する/しないなんて無意味な問題には付き合うな。物理はそんな形而上学とは無縁なのだ!、・・・(エッ、エ~ッ!(^^;))。

 今現在で聞くとずいぶん危うく聞こえますが、マッハの目的は、力学からの神学的・形而上学的解釈と概念装置の排除にありました。その意味でさっきの立論には非常に重要な歴史的価値があります。また現在でも無視しえない論点も含んでいます。じっさい運動方程式(加速度)による力の測定法,質量の測定法まで体系的に述べたのは、マッハが最初です。でも時代は、「力の理論」には「万有引力の法則」しかなく、「地球があるから重力は実在するが遠心力は実在しない」と、言おうと思えば言えた時代だったのです。
 なので次のようなやり方も可能でした。ニュートンの運動法則は3つあります。
1) 慣性の法則:力を受けない物体は、等速直線運動を行う。
2) 運動法則:運動方程式。F=ma。
3) 作用反作用の法則:保存則の根拠。
 マッハは1)は不要だと言います。何故なら2)でF=0とおけば、等速直線運動を導けるからです。しかし真の力のあるなしの検討を迫られる時代に生きている我々にとって、そうは行きません。例えば衛星軌道を驀進する夢の夜行超特急があったとします。就寝中の乗客にとって、衛星軌道の寝台超特急は地上の寝台超特急と何ら変わりません。軌道超特急の寝台は、軌道軸の回りをグルグル回転し疑似人工重力を発生させるカプセルホテル形式の優れものなのです(^^)。就寝中の乗客にとっては、地上で等速直線運動してるのと同じです。彼らが目覚めた時、自分は実在する重力という力で自由落下という加速度運動をしてるとわかるのは、地上から昇ってきたという昨日の情報が、力学情報とは別にインプットされてるからです。よって我々はマッハとは異なる方向で、現実と向き合う必要があります。

 その辺りの事情をさっくりまとめてくれたのは、やはりランダウ先生だと思います。思いますが、いつもの通りさっくり過ぎて、最初は何を言われてるんだか見当も付きませんでした(^^;)。
 力を受けない物体の事を自由粒子と言います。ランダウ先生は自由粒子が大好きです。自由粒子の力学挙動には、純粋な力学の全てが詰まってるからだと思います。

[定義-1]
 自由粒子が等速直線運動する座標系を、慣性系基準系という。

 自由粒子とは、力を受けない物体の事でした(隠れた[定義-0])。自由粒子を発見する事はとりあえず可能だと仮定します。発見した自由粒子の軌道を、自分座標系で観測したとします。軌道は等速直線運動ではなかったとします。[定義-1]により、自分は慣性系でない事がわかります。しかし軌道の観測結果から、どのような座標変換を行えば慣性系に移れるかは計算可能です。つまり自由粒子を一個でも発見できれば、慣性系は発見できます。
 慣性系が何故重要かというと、そこで働く力は全て実在の力だからです。何故なら慣性系は、力を受けない粒子が等速直線運動する座標系だからです([定義-0]を思い返す)。ニュートンの運動法則1)慣性法則が正しく成り立つ場だからです。慣性系において、実在する力だけに基づいて立てた運動方程式を任意に座標変換すれば、全ての慣性力(みかけの力)を知る事ができ、本当の力とみかけの力を区別できるようにになります。問題は、自由粒子をどうやってみつけるかです。ところがランダウ先生の力学の本をよ~く読むと、次の定義が隠れているのがわかります。

[定義-2]
 自由粒子とは、慣性基準系で等速直線運動する物体である。

 ・・・?・・・!。[定義-2]と[定義-1]は循環してませんか?。これではさっきの見分け方は全て空論です。自由粒子が先か?慣性系が先か?、の卵と鶏問題です。個人的意見では、ランダウ先生はこれらの行間で、次のように言ってるんです。

 力のあるなしは経験的に判定できなければならない。かつそれは可能である。何故なら慣性系が先に見つかるからだ。現実を見ろ。長い力学史において経験的に検証され尽くした、地球という近似的慣性系が目の前にあるではないか。その事実は、たとえ素粒子実験で強い力を観測していようと動かない。だから核力は実在の力なのだ!。
 地球が近似的慣性系である事は、惰性でスケートリンクを滑る時の事を思い出せば十分だろう(ランダウ先生はロシア人(^^))。

 こうして慣性系はみつかり、自由粒子もいっぱいみつかり、さっきの話が現実的に有効になります。そして慣性系に対して等速直線運動する全ての座標系も慣性系です。そこでは本当の力しか働きません。それがガリレイの相対性原理です。

 マッハの立論は気持ちはわかるんだけどやり過ぎだと、現在ではみなされています。それはニュートンも同じだったらしいのです。ニュートンは慣性基準系の重要さに気づいていました。だからこそ運動の第一法則として明記したのですけれど、慣性法則はニュートンの己の力学体系の基礎でした(支えるという意味で)。

 ニュートンが悩んだ状況はこんなのでした。よく引き合いに出される例として、発進中の電車の車内では、電車の発進方向とは逆向きの力を受ける、というのがあります。これも電車の発進加速度による慣性力が、実在する力である接触力に変換されて現れたものです。ニュートンは電車がもし宇宙全体だったらどうしよう?、と考えたのでした(さすがニュートン、律儀です)。
 全宇宙が発進中の電車内のようだとしたら、宇宙のいたるところでその慣性力を観測できます。その慣性力を発生させる宇宙全体を動かしていると思われる力は、実在の力でしょうか?。
 ニュートンは絶対空間(と絶対時間)という考えを持っていました。絶対空間は絶対静止系です。その中で宇宙が動きます。絶対静止系はもちろん慣性系です。よって宇宙のいたるところで同時に働く力が観測されたなら、それと逆向きの力が宇宙全体に作用していて、それは絶対静止系において作用するものだから、実在の力である事が逆にわかる事になります(発生源は不明ですが)。
 ニュートンが何を言いかったかというと、私の力学は宇宙論としても完璧だぜ、という事を目論んだんだと思います。「オイラの理論に従えば、宇宙外部の力だってわかるんだぜ」という訳です。そうするとニュートンのやるべき事は一つに決まります。
 物体の位置と速度は常に基準系からの相対値になりますが、加速度だけは絶対だと示せればOKです。それによって彼の力学は、宇宙論としても完璧になります。それがニュートンのバケツです。
 バケツに水を張ってブン回せば、水面には遠心力によって勾配が付く。これは向心加速度が化けたものだ。たとえバケツ実験を宇宙コロニーの中で行っても同じ結果になる。ほら、加速度には絶対性がある!。

 後年マッハは、絶対空間は、測量によって測定され定義される普通の空間によって置き換えるべきだと言います(まっとうだ(^^))。絶対時間は、普通に時計によって測定され定義される時間で置き換えるべきだと言います(またまたまっとうだ(^^))。しかしそうなるとマッハにとっては、慣性基準系を考えること自体ナンセンスになります(^^;)。
 何故なら、地球が近似的慣性系である事がいくら経験的に検証されたところで、経験という検証実験によって何かを証明する事は論理的に不可能だからです。(論理的には)実験によって何かを証明する事は決してできません。言えるのは「反証されなかった」ただそれだけです。言い換えると、慣性基準系の存在は、観測できないのです。では観測できないものを一切認めない、究極の慣性系である絶対空間なんてもっての他と考えるマッハは、ニュートンのバケツに対して何と言ったでしょう?。

 ニュートンのバケツから言える確実な事は、バケツと宇宙全体が相対回転すれば、遠心力が働くという事だけだ。お前はバケツの回りで宇宙全体が回転した時、遠心力は働かないという理屈を持ってるのか?。出せるもんなら出してみろ!。・・・はっはい、出せません・・・(^^;)。


 こうして眺めてみると、やっぱりランダウ先生が一番今っぽいですよね?(当たり前だけど)。納得してもらえたでしょうか?。・・・自信がない(^^;)。
by ddtddtddt (2018-07-12 19:05) 

bragelone

こんばんは。のこのこと出しゃばりました。

人工衛星の中で跳び跳(は)ねたら やはりわたしは自由落下するのであるが ただし 実質的には自由落下の動きが 人工衛星の運動としての慣性の法則によって 等速直線運動に成って現われる。

――ということではないのですか?
by bragelone (2018-07-12 20:43) 

ddtddtddt

 ddt^3です。

 プロゲラさんと話す時は、常に用語の違いに注意する必要があると思っています。これは責めているのではありません。例えば哲学方面の話をした時に、自分の言葉があなたの意図したものでない事は良くありました。
 まず慣性法則は慣性系でしか成立しません。今の場合なら、地球座標系です。人工衛星は回転運動という加速度運動を行う加速度系なので、慣性系ではありません。じっさい宇宙船に対して静止していても等速直線運動しても、常に遠心力の影響下での出来事なので、その慣性法則は真の力が0の状態に対応していません。

 なので「人工衛星の運動としての慣性の法則によって」という言葉の意図がわかりませんでした。状況をまとめてみます。

(1)
 宇宙船が軌道軸のまわりに回転していなければ、飛び跳ねても宇宙船に対しては、天井までとどく等速直線運動になります。自分と宇宙船は同時に地球まわりの回転をしており、無重力状態にあるからです(遠心力の影響)。
 これを地球座標系で見ると、宇宙船の地球まわりの回転運動+宇宙船に対する自分の等速直線運動になります。

(2)
 宇宙船が軌道軸のまわりに回転していれば(人工重力があれば)、飛び跳ねると宇宙船に対して自分は自由落下です。ここには地球まわりの回転による遠心力と、宇宙船の軌道軸まわりの回転による遠心力が同時に作用します。
 地球座標系では、宇宙船の地球まわりの回転運動+宇宙船の軸まわりの回転運動+宇宙船に対する自分の等速直線運動、という事になります。
 宇宙船の軸まわりの回転運動が、宇宙船に対する自由落下(のように見えるもの)の正体です。

 慣性系を重視する立場では(そこには真の力しかない)、他の座標系での表現は、すべて「見せかけだ」という事になります。少なくとも古典力学では。

by ddtddtddt (2018-07-13 08:17) 

bragelone

だんけ ぜーあ。

◆ (1) 宇宙船が軌道軸のまわりに回転していなければ、飛び跳ねても宇宙船に対しては、天井までとどく等速直線運動になります。

☆ という《結果状態》は――おゆるしを得て 自由スサノヲ語でしゃべっていますが―― 飛び跳ねたわたしの自由落下が変則的に(他のチカラの影響のもとに)採るひとつのすがたなのでは?



◆ (2) ・・・宇宙船の軸まわりの回転運動が、宇宙船に対する自由落下(のように見えるもの)の正体です。

☆ これも 同じく自由落下の変容している姿なのでは?

◆ 宇宙船の軸まわりの回転運動
☆ が その場合なりの《慣性》なるチカラではないのですか?
by bragelone (2018-07-13 08:59) 

ddtddtddt

>飛び跳ねたわたしの自由落下が変則的に(他のチカラの影響のもとに)採るひとつのすがたなのでは?

 自由落下を地球に対する自由落下の意味に取ります。それで良ければ、それはその通りです。遠心力に代表される慣性力は、当人にとっては現実の効果を持ちますからね。ただし遠心力を実在の力と考えなければ、という条件付きで(^^;)。


>これも 同じく自由落下の変容している姿なのでは?

 上と同じです。


>・・・が その場合なりの《慣性》なるチカラではないのですか?

 《慣性》は力ではないんですよ。《慣性法則》とは強いて言えば、運動量保存則です。
 例えば宇宙コロニーにいるアムロ君は、コロニーの外壁から飛び出そうとする速度(運動量)を常に持ちます。コロニーの外壁は、いわばそれを進路妨害する訳です。その結果、双方は双方の運動量を保存しようとして運動量をぶつけ合い、同じ速度になるように運動量を譲り合う訳です。運動量を譲り合えば、それぞれの運動量は変化します。

 ・運動方程式によれば、運動量の時間変化こそ力です。

 なので「《慣性》なるチカラ」とは、運動量という力能のイメージだと思います。そう考えれば、その通りです。
by ddtddtddt (2018-07-13 18:23) 

bragelone

上に上がれば落ちる。という法則が ほかのもののチカラ(または作用)で妨げられることはあっても 消えてしまうわけではない。
――ということでいいんでしょうか?


何だか 肩透かしを食らったみたいな。・・・ありがとさんでした。



いま ひとのみち氏を ボロクソにやっつけてやっています。
by bragelone (2018-07-13 20:28) 

nemurineko

「人の道」の質問(主張)って、これですか?
人間精神の大いなる勘違い
https://goo.gl/w3tF5z

hitonomichi36になっているから、「人の道」は36回、復活したのか(^^)

日本語ですと、信仰には「信じる」の「信」という文字が入りますけれど、
英語ですと、(正しいものとして)信じるbelieveの派生語であるbeliefの他にfaithという単語がありますよね。
で、ここを見ると、
https://ejje.weblio.jp/content/faith
faithには「(理性、理屈を超えた)信念」という意味があるらしい。
Online版のOxford Dictionaryによると
Strong belief in the doctrines of a religion, based on spiritual conviction rather than proof.
とありますので、証(あかし)や徴(しるし)を超えたところに生まれる霊的な何かがfaithになるということになるのでしょうか。

「不条理なるが故に我信ず」という有名な言葉、立場もありますし(^^ゞ

by nemurineko (2018-07-18 02:01) 

bragelone

例によって 語源辞書( OnlineEtymologyDictionary )を引きました。

belief と faith との異同について分かりやすい説明が見つかりました。

初めは 神の信仰は ビリーフがその意味を担っていた(①)が のち(14c)になって フェイスのほうがそれに取って代わった(⑥)とか。

ラテン語の fides の翻訳にあたって 同じ語源の フェイスのほうが使われるようになったのだと。


▲ OnlineEtymologyDictionary: belief ~~~~~
https://www.etymonline.com/word/belief?ref=etymonline_crossreference

① Belief meant "trust in God,"
② while faith meant "loyalty to a person based on promise or duty"
③  (a sense preserved in keep one's faith, in good (or bad) faith,
④ and in common usage of faithful, faithless,
⑤ which contain no notion of divinity).


⑥ But faith, as cognate of Latin fides, took on the religious sense beginning in 14c. translations,
⑦ and belief had by 16c. become limited to "mental acceptance of something as true," from the religious use in the sense of "things held to be true as a matter of religious doctrine."
~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ そのほか 分かったこととしては:

⑧ belief ∽ German Glaube

from *galaub- "dear, esteemed,"
from intensive prefix *ga- + PIE( ProtoIndoEuropean ) root *leubh- "to care, desire, love."

⑨  faith:
https://www.etymonline.com/word/faith?ref=etymonline_crossreference

⑩ from Latin fides "trust, faith, confidence, reliance, credence, belief,"
⑪ from root of fidere "to trust,"
⑫ from PIE root *bheidh- "to trust, confide, persuade."


☆ しかし 気に入らない点があります。
個人にとっての《信仰――信教・良心の自由というときの〈信じる〉――》ことであるのに 《宗教的な用法・意味(religious use  ⑦)》としか言っていない。

真実( to be true )として捉えるのは オシヘとして(as a matter of religious doctrine ⑦)だと言っています。

つまり ここから日本語における通念としての《〈キリスト教〉という教》で表現することが 来ているのでしょうか。

オシヘという指によって指し示されたその先を見なければならないのに オシヘという指そのものをすでに神としていて この指なるオシヘを信じるというおかしな表現になっています。



なお 《不条理・不合理》というのは 人間の思考や感性による判断が入っているんですよね。《非知ないし非思考》だと 入らない。・・・


ひとのみち氏から 返事がありません。いつものことですが。
by bragelone (2018-07-18 09:13) 

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